日本ではシーボルトの故郷として有名なオランダの町ライデン。運河には古い街並が映えて、いかにも中世都市の風格、当時から有名な大学都市でもある街の通りには重厚な景観に不似合いなほど思い思いのカッコウで学生たちが闊歩していて、暴走自転車を咄嗟によける運動神経さえ持ち合わせていれば、活気にあふれた住み心地のよさそうな町でした。
内山純蔵先生が主催されるNEOMAP「東アジア内海の新石器化と現代化:景観の形成史」プロジェクト http://www.chikyu.ac.jp/rihn/project/H-04.html は残念ながらここライデン大学での会議をもって一応は終了の予定。
大聖堂の横に近代的デザインの学生センターが建ち、聖歌が響くと思えばストリートロックが歌われているこの町で、「古くて新しい」を模索するNEOMAPの会議が開かれることは示唆に満ちている気がします。人間が作り出す風景について多角的視点から「景観の形成史」を紐解く試みを、多くの若い研究者や学生たちが聴講に来て目の当たりにできたことは、特に意味深いことのひとつであったと思います。
そもそも私のような絵描きまで参加させて下さるクロスオーバーに「総合的」な研究会の理念は現行の考古学から絶対無くなってはいけないし、それ無しで「分析」ばかりやっていては そこに生きていた人とその世界観から遠ざかるばかりではないか!?…というわけで、この研究会の意味と可能性を受け継いでゆくために、民俗、民族、言語、人類学はじめGISや建築、アートの専門家などが様々な国からそれぞれのプレゼンテーションを携えて、この歴史ある学園都市に集まってきたというわけです。
http://archaeology.leiden.edu/research/archon/news-archive/neomap-2012.html
「総合的」と「分析的」。学問のあり方について、津軽が生んだ「考現学」の祖 今和次郎が言ったという言葉を聞いて、近頃私はいたく感動しました。
大阪は国立民族学博物館にちょうど巡回中の「今和次郎展」が来ているので見に行くと、ビデオの中のインタビューで愛弟子が先生の言葉として述べていました。「学問は総合的なものでなければ社会の役に立たない、分析一辺倒になると生活からどんどん遠のいてゆく」といったような主旨でした。わが意を得たり!って感じでした。今先生 エライ!
NEOMAP研究会に流れていたボーダーレスな探求心は、リアルで奥行きある、人間臭い「風景」を復元イメージ化しようとするもので、歴史の1シーンにもそこに生きた人々がいたことを忘れずに描き出そうとするチャレンジだと私は解釈しています。永く人が暮らした場所の風景には何代にもわたる人の操作が入っているわけで、土地の景観はそこに住む人々の世界観を映し出すもののはずです。
今先生に学んで言うならば、茶碗のカケラや住居址の穴の微細に至る分析を極めても、遂にその研究成果が意味を持つのは そのミクロの穴から見渡すべき世界の全体像に参画した時であり、その世界は揺らいだり、急変したりする可視と不可視、モノと精神の両面から成っていることを 絶対に忘れてはいけないと思います。
人の暮らしのすべてに目を向け、片っぱしから描き写して統計を取ったり、図式化したりしながら人の営みとそこに流れる精神に迫っていった今和次郎の姿と 若い研究者を中心としたモダン考古学の雄 NEOMAPプロジェクトは、たとえば縄文時代を生きた人々に温かい血を流し、声、歌、物語を取り戻し、生きざまを問いかける イマジナティブな復元のために 欠くべからざる大切なことを教えてくれていると私は感じています。
安芸 早穂子 HomepageGallery 精霊の縄文トリップ