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連載企画

小山センセイの縄文徒然草 小山修三

第14回 吉野ヶ里遺跡で考えたこと 2012年7月23日

吉野ヶ里遺跡を見にいった。1996年に梅棹 忠夫(元国立民族学博物館長)さんと三内丸山遺跡に行った時、あの六本柱に注目され、「吉野ヶ里遺跡にいってみたい、あそこの高い塔は出雲大社の神殿ともつらなり、日本文明をとくカギになるはずだ」と言われ、あとで一緒に訪ねて以来のことである。

吉野ヶ里遺跡は1986年から発掘がはじまり、邪馬台国だという説も出てマスコミに大きくとり上げられ、大勢の人が押しかけ、遺跡の保存も決まった。この現象は90年代の三内丸山遺跡の先駆けとなり、先史時代の遺跡を一般に公開するモデルとなった。

1992年に遺跡の中心部が国営化され、まわりを佐賀県が整備して歴史公園センターとなった。現代的な建物のエントランス、展示室屋や講座室はもちろん駐車場、レストラン、売店、トイレ、喫煙場まであり、園内バスまで走るすばらしい施設となっている。入場料は大人400円、65歳以上200円、小・中学生80円。

広場には休日になると市場ができ、食べものや道具作り、音楽や踊りのイベントが繰り広げられて古代と現代が入り混じった不思議な空間が出現する。コムギの収穫祭のイベント告知には意表をつかれた。これまで、弥生はコメに集中しすぎだと思っていたからである。

画像:吉野ヶ里遺跡

中心には祭りの場、支配階級の住んだ内郭および墓、倉と市場、庶民のムラなどの区画にわけられ、なかに宮殿、楼閣、門、倉庫などがひしめくばかりに建てられている。それを囲む柵の立ち木列にはあらあらしい迫力があった。三内丸山遺跡ではあれほど建物の復元にうるさかった佐原 真(元国立歴史民族博物館長)さんが見たらどう思うだろう、と感慨深かった。

野性にあこがれる私としては、制度化が進む弥生はやや窮屈(きゅうくつ)、縄文のほうが夢があって好きだ。しかし国の歴史としてはこのほうが説明しやすいのだろう。ゆとり教育が始まったとき、縄文時代を歴史教科書から落としてしまったことに驚いた。考古学者たちをはじめとする人々の抗議によって復活したので胸をなでおろした。

自然と共生する人間の生きかたをさぐるには、縄文は自由研究として最適のテーマだと思うのだが、それは官と民の視点の違いだろう。いずれにしろ、現場を支えているのはボランテイアの活躍である。歴史への関心と郷土愛、それが地域活性化のエネルギーになっていることは確実である。

プロフィール

小山センセイの縄文徒然草

1939年香川県生まれ。元吹田市立博物館館長、国立民族学博物館名誉教授。
Ph.D(カリフォルニア大学)。専攻は、考古学、文化人類学。

狩猟採集社会における人口動態と自然環境への適応のかたちに興味を持ち、これまでに縄文時代の人口シミュレーションやオーストラリア・アボリジニ社会の研
究に従事。この民族学研究の成果をつかい、縄文時代の社会を構築する試みをおこなっている。

主な著書に、『狩人の大地-オーストラリア・アボリジニの世界-』(雄山閣出版)、『縄文学への道』(NHKブックス)、『縄文探検』(中公 文庫)、『森と生きる-対立と共存のかたち』(山川出版社)、『世界の食文化7 オーストラリア・ニュージーランド』(編著・農文協)などがある。

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