「遊びの美学」なんて言う言葉ってあるのだろうか。あるかも知れないが、私は知らないだけでしょう。私の中では「欲張らないこと」が美学の一部にある。
野遊びではことさらに大事にしたいことです。最近の雑誌はジャンル別に枝分かれし、アウトドア関係の書籍も多いが、さながら「道具図鑑」の趣が強いのは否めない。知識のない人は、道具があればプロにでもなったような気になるのかも知れないが、どこか違いますよ!と言いたい。最小限の道具を言えば「リュック、雨具、ライト、グローブ、ファーストエイドキッド」があれば通常の山歩きでは事が足りる。自分の体力を考えても余計な道具は携行しないことが良いようです。荷が軽いとフットワークもよく、心も軽いのです。
また、山菜の採取も欲張ることなく程ほどにしたい事の一つです。たくさん採っても自分の口に入れる量は少しで、知人に配るのがオチ。「自己満的」ではないだろうか。白神の山々は、山菜の宝庫で知られているが、昔ほど食べ物に不自由な時代ではないのでプロでもない限り、限度をわきまえることが肝心だと思います。人の文化は「貯蔵」の技術を身につけた時から変化したと思うのです。それは「貯める」ことを知った段階で「貪欲さ」が生まれてしまったと思うからです。
西目屋村では、山に入るときは「にぎりめし」があればいい。と言われていたようですが、日本中が貧しい時代の山村生活の共通点だったのでしょう。
それこそ「味噌と塩」を持てばどこでも食べることができた時代の再現は難しいが参考にしたい考え方です。この北東北地方に居住していたアイヌの民は必要な分だけ「頂いた」と言うが、「取る・採る」とは思想的に随分と違うことを感じます。そういう私も偶然に見つけた「マイタケ」だけは、置いてくる訳にはいかない気になるのです。「言行不一致!」の誹りが聞こえるようです。