春が来れば長い冬眠からさめる動物や山野の植物たちの姿が見られます。これは不思議なくらいに当たり前のことですが、当たり前すぎて見落としていることや、気づかないことが余りにも多いことに気がつくことがあります。
最近、海の環境問題やドキュメントが放送され、アフリカの大地の動物たちの生態について目にする機会が多いように感じられます。殊更に今、このような番組が大きく扱われる背景は、緊急な現代的な課題があるからでしょう。
春から11月上旬まで、ほぼ毎日白神の自然と付き合いながら、それとなく観察していると、自然の変化から少しずつ分かりかけることがあります。それは、「いのち」の考え方でした。8,000年の歴史が刻まれてきた白神山地に住む植物や動物はもとより、微生物や昆虫にいたるまで全てが「生きて来た」ことです。笑わないでほしいのですが、実は当たり前のことなのです。しかし、これで話は終わらせることは出来ません。
「生きて来た」のは向こう側の物語ではないことが見えてきたのです。アフリカや深海の様子、ミクロの世界まで追求した番組も、今までは向こう側の映像の中の世界で、私とはほど遠い世界でしかなかった事に気がついたのです。
私は「命が受け継がれて現在まで生きて来た森です」と説明しているのですが、「じゃ、俺たちの命とは違うのか?」と考えた瞬間に身震いをするようなショックを感じたのです。観念では理解していたものの実感として感じてしまったのです。「お前たち!俺と同じ命を持っているんだよナ」なのです。人と同じ言語を持たないけれどペットだって家族として生きているのだし、森の精気を頂いて生きている私には「森は家族じゃないのか?」そんな思いが日々強くなっているのが不思議です。地球に生きる者の全てが、重さや大小で比較することができない「命」を共有していること、そのことに気づくまで時間がかかり過ぎたが、遅いけれどよかったと感じるのです。「エコ・遊々の森」の静寂で風が妙に優しい中で知らされたのでした。