1960年代のはじめ、アメリカの考古学者R.ソレッキ博士がイランのシャニダール洞窟発掘の報告の中で、ネアンデルタール人が花をそえて幼児を埋葬していたと発表して大きな反響をよんだ。
ネアンデルタール人は1856年、ドイツのネアンデルタール渓谷の石灰岩採集現場で偶然見つかった骨を、調査にあたった学者たちがヒトのものと鑑定したことが発見のきっかけであった。ただ、あまりにも奇妙なかたちをしていたので、当時は「カルシウム不足のコサック兵」とか「痛風によって変形した老人の骨」、「ケルト以前のヨーロッパ人」など議論百出、結局、前かがみの姿勢で立ち、顔は眉の上と後頭部が突出したゴリラに近い姿が復元された。その影響は今も根づよく残っている。
その後、研究の進展にともなって、同じ形質のグループが、おそくとも20万年前からヨーロッパから西アジアにひろがり住んでいたが、2万4000年前には姿を消したことが明らかになった。人類史として見ると、ホモ・エレクタス(原人)とクロマニヨン(新人)の間に位置するもの(旧人)と位置づけられ、しばらくは共存状態にあったクロマニヨン人に滅ぼされたと考えることが一応の定説となっている。しかし、両者の間に混血があったという説もある。
花は飾りか薬草か
シャニダール洞窟にはたくさんの埋葬跡があり、そのうちのⅣ号祉に花粉が集中する場所があった。そこで同定されたのが白、青、ピンクの色鮮やかな花の草だった。
わたしは、これらの草が薬草だったのではないかと思う。ちなみに、日本で使われている民間薬や生薬のリストをみると、アザミ、スギナは利尿、解熱、鎮咳。ノコギリソウは止血、ヤグルマギクは目薬と効用が書かれている。そしてヤグルマギクはツタンカーメンの墓からも発見された由緒ある草だそうだ。
古代文明の発達したこの地方にはメソポタミアの粘土板やエジプトのパピルスにも記載があり、ギリシャは世界で最初の薬草の書(テオプラトス『植物誌』)が編まれた先進地域の一つだった。薬草の効用は、どの地域にも共通するものが多く、時間的にも深く、激しい毒を持つものもあり、治療や傷の手当のための使用法や効果についての知識と技術のたしかな蓄積があったはずである。それを医学の萌芽と考えて地域ごとに体系化されたはずである。20万年前のネアンデルタール人も、花で飾るという心だけでなく、病や傷を癒やすという身体のケアについても対応していたと考えてよいだろう。
日本の民間薬や漢方も、その知識と技術の根源は縄文時代にまでさかのぼると考えはじめたところである。

1888年のネアンデルタール人復元図
(Hermann Schaaffhausen,Wikipdeiaより)

ヤグルマギク
(TeunSpaans,Wikipediaより)