縄文時代に農耕があったのではないかという意見は古くからあった。新石器時代の始まりは「土器の出現=農耕」というヨーロッパ的でクラッシックな時代区分法がもとにあり、中期における関東中部地方の打製石器の多さもそれが耕作用と考えられたからである。
1960年代から考古学を学び始めた私の経験から言うと、縄文時代の作物は何だったかについては、貝塚からの動・植物遺物資料を精力的に集めていた酒詰仲男さんがクリを、藤森栄一さんは雑穀があった可能性を考え、それは焼畑だったことを示唆したことを思い出す。しかし、ほとんどが考古学界内での議論で、地域的にも日本に限って論じようとしていたのであまり説得的ではなかった。その原因は農業=水田稲作という、一般的な日本人の思い込み(私もふくめて)が反映していたようだ。
1950年代から京都では学際的研究がさかんとなり、そのなかの一つとして中尾佐助さんが照葉樹林文化論を唱えたときは、生態学、農学、民族学、地理学、歴史学、考古学の人たちが議論に加わって豊かな展開を見せた。佐々木さんはまだ若手の1人だったが、インド、東南アジア、中国、日本までの広い地域の農耕のあり方を精力的に調べて、その主流が焼畑であり、それは稲作に先行する(古層)農耕であると確信するにいたったようだ。
佐々木さんがNHKブックスで『稲作以前』を出版したのは1971年だった。私はその頃アメリカ留学中で、台湾での発掘現場でその本を見せられたのだが、アメリカや中国の学者からも大変注目されていた。そのとき衝撃を受けたのは日本の農耕は縄文時代後期に、南ルートで大陸から西日本で始まったという説だった。もやもやしていた縄文文化と農耕との関係がすんなり飲み込めたのである。
1976年から私は国立民族学博物館に勤めることになったが、そこで行われた10年にわたる特別研究『日本民族文化の源流』の総指揮を執ったのが佐々木さんだった。京都での例にならって、関係学会の長老から若手まで、そうそうたる人々を呼び集め熱い討論がくりひろげられ、その成果はすべて出版された。このシリーズの最も大きな成果は、日本文化が稲作に始まるという、いわば皇国史観から、縄文時代まで時間をさかのぼらせたことであり、それは考古学を歴史学にまで広げたことにあった。
この時、私は若手メンバーの1人として走り回ったのだが、はじまりが台湾だったことに不思議な縁を感じている。