
「精霊の舟」より
フィンランドの童話作家による「ムーミントロール」の話は後にテレビ化もされ、「ねえムーミン・・」という主題歌も大ヒットしました。妖精に対して、精霊と妖怪の間のような、トロールという存在を私が知ったのは、この童話からだったかもしれません。
そのお話の中で、スナフキンというキャラクターがありました。スナフキンは村の住人ではなく、旅人です。村はずれの森で野宿同然に暮らし、焚き火の脇で思索にふけったり、ギターを弾いたりしています。少年ムーミンは、スナフキンの孤高な生き方、漂泊者が放つ神秘的な知性に魅せられ、憧れて、事あるごとに彼のもとに行っては旅の物語を聴いたり、相談ごとをしたりします。
焚き火をはさんで静かに交わされることば、未知の国の物語。ムラの住人でないスナフキンは、少年の日常世界と未知の世界とを取りもってくれる大切な魂の案内人。ムーミンに象徴される全ての子どもにとってスナフキンのような物語の語り手と出会うことがどれだけ心の厚みを増すことになるか、近頃のニュースを聞きながら考えています。
ブータン国王が大震災のすぐあとに南相馬の小学校を訪問されて、子どもの心の中で育つ龍の話をされました。龍は総ての子どもの内に一匹づつ住んでいて、その子どもの「体験」を食べて大きくなると。悲しみも喜びもしっかりと受け止めて噛み砕き、よい栄養にして「君たち一人ひとりの中にいる龍を立派に育てなさい」と、王様は言われました。遠い国から来た王様は間違いなく子ども達のスナフキンでした。

「縄文探検」より
もうひとつ、スナフキンが担うのは、「おじさん」の役割ではないかと思います。両親や学校の先生のように直接の保護責任者ではない親戚のおじさんたちは、たいがい子どもに人気があります。「ぼくの伯父さん」というペーソスにあふれたフランス映画がありましたが、ちょっとろくでなしで両親からは疎まれているけれど、不思議なことを知っていて、スマートないたずらの仕方を教えてくれるおじさんは少年のヒーローでした。
たくさんの少年少女たちが、明日は何をして遊ぼうとかという選択と同列に自分の命を絶つ選択をするようになった今日の世界の背景には、スナフキンがいなくなってしまったことが影を落としている気がしてなりません。
人が成長していく道筋に効率的ということばは意味を持たないのに、効率重視の世界で育つ今の子ども。
人が希望を捨てずに生き続けてゆくためには、何の役に立ちそうでなくても、自分が歩いている道から見晴らせる風景の広がりや豊かな彩りが必要です。
日常を担う現実的関係の大人たちとは一線を画して、子供が知らない世界を生きるおとな、時には社会に疎まれもしながら、地平線の向こうに広がる未知の景色をひと時、彩り豊かに垣間見せてくれる、不思議な魔法を知っているオトナ、そういう大人が教えてくれた今とは別の世界が、どこかにあると知っているだけで、子どもは子どもらしく気分を変え、子どもの本質である好奇心を蘇らせて、もう一度生きてゆく力を得るのではないか。
すべての物語が書物ではなく、言葉で語られた縄文時代の村では、語りの場そのものが非日常の世界への入口ではあったかもしれません。古代には、すべてのオトナは魔法の言葉を知っていたのかもしれません。
それでも、強いられたり、比べられたり、後悔させられたりする日常にまみれたムラ世界のはずれに、揺らぎながら輝く焚き火を煌々と焚く魂の案内人がいた。その懐をめがけて、何人もの少年少女たちが駆けていったかもしれないと思うと、人工光が溢れすぎて焚き火の光が見えない今の世界を生きる子供たちが随分と可哀想に思われます。
安芸 早穂子 HomepageGallery 精霊の縄文トリップ