縄文の人たちはたくさん石の遺跡を遺しましたが、彼らが石に託した思いというものは、一体どんなものだったのでしょうか?
四千年前に縄文人の手によって造られた小牧野ストーンサークルは、青森市の中心部から南へ約5km、高さ約145mの台地の上にあります。
小牧野遺跡を一番最初に訪れた時は、驚くほどにその遺跡に関する情報が少なく、地図にも載っていませんでした。あるのは「そういう遺跡がある」という噂だけ。
インターネットで調べた情報も、「小牧野遺跡は、青森市の中心部から南へ約5km、高さ約145mの台地の上にあります。」という……ちょっと驚くほどの手がかりのなさでした。(台地の上って……。)
縄文人が手で、川原から運んできたという大きな石は、男根のような形をしていて。生命力を太陽から受け取っているようにも見えました。
十年ほど前にこの遺跡に作家の梅原猛先生が訪れた際、同席した舞踏家の雪雄子(ゆきゆうこ)さんに聞いたお話ですが、梅原先生は小牧野遺跡に訪れた瞬間に、こうおっしゃったのだそうです。
「真ん中の巨石は男根を表している! そしてその周りを囲んでいるのは女石で、女陰を表しているんだ!」と。
その石は、生命を生み出す行為を象徴していました。
遺跡の周りには、縄文人の墓が多数発掘されています。
生命を生み出す行為と、死を埋葬する行為。
それが同じ場所にあるということは、ストーンサークルというものは一体、どういう意識の下に創られていたのでしょうか?
そういった縄文人の意識を深く掘り下げた青森の刊行物に、季刊『稽古館』の小牧野遺跡特集があります。編者は青森市にお住まいの民俗学研究家、田中忠三郎さん。
今から約四十年前、縄文土器の発掘に情熱を傾けていた田中忠三郎さんは、平内町の小湊遺跡から土器の包含層を見つけ、その場所が畑であることから、春になって開墾が進み、遺跡が荒らされる前に発掘をせねばと、何かに取り憑かれたように冬の凍てついた大地を素手で掘って土器を集め、水で洗い、復元する作業をしていました。
後に小川原湖民俗博物館館長を務め、青森県の民話や民具を「縄文から続くもの」として捉え、民具を通して当時の生活と心を知ろうとした、誠に希有な民俗学研究家です。
季刊『稽古館』の小牧野遺跡特集では、青森県に長く伝わっている「死んだら山に帰る」という思想や、昔の出産で、産婆が子供を取り上げる際に子供に障害があるかどうかを確かめ、「このわらし(子供)、戻すか戻さねか?」と産婦に問いかけると、子を産みたい産婦は「戻さねでケロ!(戻さないで下さい)」と答えたという民話を紹介しています。
「戻す」というのは、「土に戻す」ということ。
そして、土に戻る埋葬と生命を生み出すセックスという行為は、女性の体内で繋がっているのです。それをダイナミックに、自然の世界に表したのが、小牧野のストーンサークルなのかもしれません。
小牧野ストーンサークルに象徴的に祀られた、男根を表す巨石とその周りにある女石。
数多くの墓。縄文人は、死んだ子供の遺体を、人の出入りの多い家の前に埋めました。
梅原猛先生は雑誌『本の旅人』の中で語っています。
「家の入り口はよく人が通る。足踏みは呪的な行為なんです。よくセックスをせよ、という意味です。それで、次の子が生まれると「死んだ子が甦った」と考えるわけです。」
縄文人は大体、寿命が三十歳前後だったと言われますが。四千年前に縄文人が川原から山の中へ運んだ石は、今なお青森の山中に佇んでいます。
繰り返し、繰り返された生命の営み。その先に生まれた私達。
私の子供は、一歳頃から石にすごく興味を持っていて、道ばたに石ころを見つけると、黙ってしゃがみ込み、黙々と石を拾って遊んでいました。
同じ年頃の子を持つ東京の女性に、「石を見つけると、動かないんですよ」と言うと、「うちの子もそう!」と言われ、驚きました。子供というものは東京で生まれても青森で生まれても、石で遊ぶものなのだと。
生命の流れの中で。石で遊んでいる子供を見ると、私達は縄文人と変わらない存在なんだと感じます。幼い頃に夢中になって遊んだ石。きっと小牧野のストーンサークルは、縄文人の色々な直感と考えのもとに、夢中になって創られたものだと思うのです。
<参考文献>
『稽古館』 特集 小牧野遺跡 青森市歴史民俗展示館 稽古館刊
『本の旅人』平成十八年 二月号 角川書店刊
『下北 忘れえぬ人々』 田中忠三郎 著 (有)荒蝦夷刊