
供物の丘 (PHP出版掲載より)
三内丸山という古代計画都市の真ん中を貫いてズラリと並ぶ墓の列。10メートルという道幅の両側に墓を伴い、村の中央広場から海へと続く立派に造成された道路。民俗学者赤坂憲雄氏をして「人間のための道ではない」と言わしめた謎の縄文大路は、やはり墓を伴う何本かの細い枝道が合流してできた姿だったのかもしれません。
「遺跡のお月見宴」が今年もやってきました。祭りの舞台である三内丸山遺跡では今も発掘調査が進み、驚くべき規模と深みを年毎に増して、古代縄文の村が姿を現してゆきます。
祭りの始まりを告げる現地発掘状況説明会では、遺跡の西側にも列をなす土坑墓とその間に続く道の一部が新たに公開されました。オレンジ色のローム層を削り出し丁寧に平らに造成されたその道は、実はまだまだその全貌を現してはいないのです。
数千年という時の流れを経て私たちの前に姿を見せる遺跡の景観は、古代の人々の心の風景とも捉えられます。
死者に寄り添いながら歩む道を縦横にもつ三内丸山は、縄文人の死生観を表す「壮大な魂の旅の地図」であったかもしれない。そう思うと、降り積もった時の塊の下から掘り出されるその風景の神秘に鳥肌が立つ思いがします。
私たちが鳥居をくぐり石段を登り柏手を打ったり、線香の香りの回廊を巡ったりするよりも、おそらくはずっと切羽詰った真剣さで、縄文の人たちは三内丸山を訪れては祖先の住む世界との交感を図ったのかもしれません。
墓地跡に店を作ると人を呼んで流行るとか言いますが、三内丸山にもそういう吸引力があるのでしょうか。前世紀末の発見以来 膨大な数の人々がこの遺跡を訪れました。お月見縄文祭も本当に様々な方が支援し盛り上げて下さって15年目となった今年は、遺跡の何が人を引き寄せるのだろうかと少し考えを巡らせもしました。
例えばNPO三内丸山縄文発信の会は、日本中に衝撃を与えた世紀の発見の現場に居合わせた人々が、その後の職場や立場の変転にも関わらず、年々新たな姿を現す遺跡とともに歩み続け、神秘の向こうの姿が明らかになる度に感動を新たにし、縄文文化に興味をそそられ続けています。
新大陸での先住民文化に関わる遺跡などでは、研究や観光化が進んでも子孫であるはずの人々が蚊帳の外にされ政治問題化したり、また貧しい国や戦争に苦しむ国では遺跡の保存自体が成し得ない夢であるとも聞きます。
行政の努力や少なからぬ幸運に恵まれて、発見以来一貫して多種多様な人と活動を受け入れ続ける三内丸山遺跡は、世界的に見てもとても幸福で先進的な「市民の遺跡」といえるでしょう。
なかでもの最も幸福なことは、地元の多くの人が「自分たちの財産」として積極的に関わり、この遺跡を愛していることに尽きると思います。毎年の暖かい出会いを重ねてきた月見の祭りで、今年も私はそう思いました。

西へと続く道 (縄文まほろば博展示画から)
ワークショップに使う大小の石ころを 浜でいくつもいくつも拾って大きさごとに分け、丁寧に準備してくれた人、その人がやがて凛とした芸能を披露し、それに聴きいる人が集い、立ち上がってラッセラーのねぶた囃子をハネる人や 孫を連れた笑顔の爺っちゃ、寒くないかと尋ねてくれる人、思えば毎年ずうっと変わらない暖かい風土の心や作法に、古代の祭りの丘で今も繰り返し出会うことができるのは本当に幸福なことです。
とっぷりと日が暮れて、復元された縄文村の集会所で行われる月の宴では、古代の秋に思いを馳せた心尽くしのご馳走と郷土の名演奏家による三味線、太鼓に「縄文語北国の春」の熱唱が響き、お手製の遮光器土偶のかぶりものをつけて次々に陽気にハネる人々の軽やかな足さばきが、闇に沈む遺跡の中でそこだけ明るく照らし出されているようでした。
祖先の墓に伴われた縄文の道はどんな世界に続いていたのか。百年の単位で森を育てたという縄文の人々が、数千年をかけて描いた魂の旅の地図。それはさらにその数千年先に訪れる私たちの祭りにまで続く時の座標さえ持っていたかもしれません。三内丸山遺跡の道が描きだす世界は、ひょっとすると1万年の時空を飛び越えても巡り続ける過去から未来までの土地と人の、魂の交流のための多次元地図であったかもしれない などと、ふと考えた祭りの夜でした。
安芸 早穂子 HomepageGallery 精霊の縄文トリップ