佐々木高明さん(元国立民族学博物館館長)が縄文農耕焼畑論を提唱したのは『稲作以前』(1971)だった。その説は、国立民族学博物館で行われた特別研究(1978~87)でさらに強化されていった。
縄文時代の農耕については早くから、関東地方の縄文時代中期の遺跡で大量に出土する打製石斧を掘り具とした大山柏のイモ類栽培説、酒詰仲男のクリ栽培説が論じられている。そして、藤森栄一は長野県八ヶ岳山麓の中期の遺跡における華麗な土器文化を支えたのは焼畑農耕であるという説をだしている。また、江坂輝弥、坪井清足なども農耕の可能性を論じている。ところが、決定打となる明確な証拠は見つからなかった。
佐々木さんは栽培植物の証拠は必ず見つかるはずだと闘志を燃やしたようである。それは世界の考古学の動向を鋭く読んでいたからである。
考古学は、1960年代から「人と環境」への関心が高まり、電子顕微鏡をはじめとする新技術が続々と導入された。その影響は日本にもおよび研究者の数も増えていった。現在使われている手法は、水洗いによる種子や籾(もみ)の検出、プラントオパール、花粉、土器の圧痕文(あっこんもん)、DNAの分析がある。そして、今あるデータからみると、縄文時代後・晩期に西日本に陸稲(りくとう)が集中している。これは佐々木さんの仮説を証明するものだろう。ただし、イモ類についてはまったく手がかりがないのだが。
ところが、北日本には、佐々木さんの予想をはるかにさかのぼる縄文時代早期の段階から多数の栽培植物が発見されている。これは北海道グループによる追跡の成果で、特にヒエは早期からあらわれ、住居跡(炉の周辺)から多数の種子が発見されていることからみて利用されていたのは確実だが、時代の経過とともに粒が大きくなることから、野性のイヌビエが栽培種(縄文ビエ)に選抜されていったと考えられるという。
また、縄文時代前期に関東から中部にかけてオオムギがあらわれ、中期にはその例数が増える。ソバも早く、前期に北海道、中期には北陸にひろがる。そして三者とも後期以降は全国的に分布するようになる。エゴマも早期の発見例があり、中期になると関東・中部地方を中心に濃密に分布している。これは、クリ栽培と連動しているのではないか。
蔬菜類(そさいるい)としては、ヒョウタン、ウリ、マメ類、ゴボウ、アブラナが前期からあらわれることは無視できない。最近では、アズキではヤブツルアズキ、ダイズではツルマメという野生種が栽培化された可能性が報告されている。他に、アサ、ウルシなどの食料ではない栽培植物もある。これらのデータは縄文農耕の開始や拡散が複雑な様相を持つことを伺わせるのである。
日本文化は稲作に特徴付けられ、それは水田稲作が始められた弥生時代からという説は、例えば柳田國男が、山人(さんじん)という異質な社会の存在を十分認識しながらも、蝦夷(えぞ)、熊襲(くまそ)、国栖(くず)、土蜘蛛(つちぐも)などの被征服民を切り捨てたために、世界的には通用しない皇国史観から一歩も出ないものである。縄文農耕説はそれに対抗する立場からの問題提起であったといえるだろう。
考古学を民族学と一体化させることによって、その社会組織や心性にまでおよぶ複雑で豊かな世界を論じるまでに可能性を広げたことは、佐々木さんの大きな功績だといえるだろう。

佐々木高明先生追悼シンポジウム「日本文化のしくみ-その多様性を考える」
(平成25年11月9日 国立民族学博物館)