
神の器の発明 (縄文の子どもたち から)
縄文人がペットボトルを知ったら、神の器として崇めることでしょうね。土器から陶器へ、そしてガラスよりも透明になって 私たちがようやく手に入れた「軽くて割れない器」は彼らにすれば奇跡の器でしょう。
昨夏、バリ島に久しぶりに行って驚いた風景の大変化は、交通量とペットボトルの量の驚異的な増殖でした。彼らが大切にしている沐浴場でもある川のいたるところにできたペットボトルのダムは、どうしてあんな悲しみをかもしだすのかなあ。
ヤシの木よりも高いビルは許可せず、島民が率先して伝統文化を守り続けようとするこの島には、謙虚で聡明な人々が今も暮らしていますが、その彼らでさえ、神の器のご威光には直ちに目がくらんだことが明白な、それは光景でした。
バナナの葉で包まれ、素焼きの壷で運ばれた彼らの美しい伝統食材や果実のジュースは、今でも丁寧に護られ受け継がれているのですが、葉っぱは派手な色のプリント紙になり、ペットボトルとともに谷川のゴミ捨て場を著しくカラフルにしています。
この島の暮らしに私が魅入られた理由は、古代に通じるであろう多くのものを見出すからでした。例えば、毎朝新しいお供え物を準備することはこの島の女性にとって一生繰りかえす生活の大切な一部で、それらの供物のお下がりを客に薦め、自らもありがたく頂いて、草花で作られた芸術的な飾りは、毎日新しいものと入れ替えられ、古いものは谷川の廃棄場に投げ落とされ日々積もってゆきます。貝塚というよりは草花塚ともいうべき彼らの供え物投棄場は、縄文村に貝塚が作られてゆく風景と祈りの風土の繋がりを私にリアルに見せてくれるまたとない現場でもありました。
ペットボトル自体はおそらく神の名に値する素晴らしい発明でしょう。衛生的で耐久性抜群のこの器は、熱帯のジャングルで暮らすたくさんの子どもたちを疫病から救いもするのでしょう。ただ、その圧倒的な便利さを載せてやってくる経済という魔物のスピードが密林の魔物の比ではなく、バリの風土にあった使いこなしを工夫する時間を人々に与えず押し寄せたのです。
同じことは世界中で起こり、まるで昔話の寓話のように増殖を止められない神の器で町はあふれかえっています。
この神々は、経済効率という宗教を何より重んじ天の最高峰に頂くために、後始末を考えることを許さず「もっともっと」を強要します。全く同じに世界中で後始末を考える時間を許さないまま旺盛に使われているもので日本人はつい最近も大きな痛手を負いましたが、ひるんだかに見えても崇拝される現代の絶対信仰の威光が衰えることはないようです。
ところで、さっきまでBSでやっていたハワイのフラダンスの番組では、現代寓話と対照的な風景を見ました。モクモクと煙を吐くキラウエア火山の火口で、妊娠数ヶ月の若妻が火の神に祈りのことばを叫びながら恍惚とフラを踊っています。フラの伝統にのっとった厳粛な儀式を積み重ねてようやくたどり着く踊りの舞台、習わしの生き字引である古老の歌声とともにすべての儀式が終わると 若妻は身につけていた美しいシダの葉の飾りや腰蓑の全てを 綺麗にまとめて大きな葉でくるんで火口に投げ入れました。
土地を作り出した火山の神に返された草の飾りについて、数百年後の人が絶対に見つけることができないことはあまりに多い。貝塚から出土する様々なもの、貝殻や土器片や土偶や人骨までを思うとき、そういうものたちと古代の人がどんな関係を結んでいたのかは 経験の枠を超えて到底私たちには思い浮かばないことかもしれません。
獣の肉を食べるには 狩りのための弓矢を作る、弓矢を作るためには木を切る。木を切る道具を作るためには川原へ行って石を選び・・・身の回りにあるすべてのものを作り出して暮らすということは、それら全てのものの終わりをも見届けることに繋がったでしょう。バリの人々はバナナがどんな木でどのように育つのかをずっと見知っているけれど、現代の錬金術で果てることなく量産できるペットボトルと我々の関係はあまりにも薄い。
沐浴の川を堰止めんばかりに捨てられた神の器が悲しく目に映るのは、賢く守られてきた古来の島と心の景観が、さっぱり馴染みのないインベーダーに凌駕されてゆくことだけがはっきりと見えるからじゃあないかなあ。

夜の街とモダン妖精
安芸 早穂子 HomepageGallery 精霊の縄文トリップ