11月に、「国立民族学博物館友の会~民族学研修の旅~ベトナム西北部少数民族の世界へ」の旅に参加した。ちょうど雨季が終わり乾季に入る頃なので焼畑に火をつけるところを見られるかもしれない、という言葉に惹かれたからだ。
野や森を焼くことは1980年代にオーストラリアで懸命に追いかけていたテーマだった。それは農業ではなく、自然(植生)をコントロールするアボリジニの知恵だったことがわかった。ほかに「縄文時代に農耕があり、それは焼畑であった」と主張する佐々木高明先生(元国立民族学博物館館長)にひっぱられて、同僚の松山利夫さん(国立民族学博物館名誉教授)らと共に、日本では白山(はくさん:石川県白山市)や椎葉(しいば:宮城県椎葉村)に出かけていた。しかし、もう日本では焼畑の時代は終わっていて、作業現場を見られなかった。そんな心残りが今回かなえられる。
ベトナムの最高峰は3,143mのファンシーパン山で、富士山より低いことからもわかるようになだらかな山が拡がっている。そこに、モン、タイ、ザオ族などの少数民族が混在して住んでいるが、彼らは歴史的に中国やキン族のベトナム王朝などに翻弄されながらもしぶとく生き残ってきた。水田稲作のように定住を旨としない焼畑はそんな生活を支えるには絶好の生業だったのである。
中国との国境に近いラオカイ地区に入って畑を焼く煙を見た。漂う草木の香りがなつかしかった。
焼畑がこの地域の景観を作り上げていることは確実である。山の植生がモザイク状になっているのは激しく人の手が入ったことを示しているし、自然植生は残っていない。モザイク状の植生は戦後の四国山地の景観とよく似ていると思った。日本と違うのはこの地の人々は直登するらしく、山道が曲がりくねらずまっすぐにつけられていることだろうか。
家のあり方に焦点をあて、地形(高さ)によって模式化してみると、山頂に近いやや急な斜面には林(二次林)が残されているがそこに食い込むように焼畑で開いた痕があり、近くにぽつんと家がたっている。次に、緩斜面の中腹部では、畑が常畑となり家の数が増える。もっと下がった裾野では、川に面して棚田が開かれ家が並び、周りには常畑や果樹園、竹林、池があり、たくさんの家が集中して村落が形成されている。
これを焼畑から水田稲作へという歴史進化と見るか、人口増加、戦乱、不作などの危機から逃れるために残した戦略なのか、考えることはいっぱいありそうだ。
異文化の村に長く座り込んで調査をやった頃のエネルギーがあればと悔しかった。

ベトナムの焼畑

焼畑で芋を収穫する家族