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連載企画

小山センセイの縄文徒然草 小山修三

第31回 ベトナムの焼畑村(2)食の豊かな村 2014年1月23日

縄文時代のムラはベトナムの焼畑村によく似ている。バスの旅の途中、道路わきにある一軒の家に立ち寄って見学させてもらった。

屋敷内に入って目を見張った。穀物などの食料庫のほかに、高床の住み家の下にはブタ、ニワトリ、スイギュウ、イヌなどの動物がいっぱい。池には魚、アヒル、ガチョウ。屋敷周りには竹、バナナ、パパイヤ。小さな菜園には緑の野菜がつくられ、蝶が舞い、蜂が飛ぶ。

背後のゆるい斜面は、かつては焼畑でアワや陸稲がつくられていたというが、今では過度の使用のために常畑となって、トウモロコシやサツマイモ、キャッサバが植えられている。屋敷の下方はコメ用の棚田。畦道には野草や薬草。その他に、イノシシ、シカ、ハクビシン、野鶏、それに木の実など野生のものは高地民が売りにやって来るそうだ。古老の話では、「かつては彼らが、籠を背負い、一列になって山を降りてくるのを見たものだ。今はバイクで来るが」。これらはすべてマーケットで売っているものばかりである。村の食糧供給はまことに豊かだ。

焼畑民はもともと移動を旨とするため半定住的である。度重なる戦火をさけたり、国の政策による強制移住や農業集約化などもあったりして、この家もせいぜい50年ほどの歴史しかないという。すると、今見ているのは最近作られた風景と考えるべきだろう。

食料の確保は人類にとって最大の問題だった。まず、旧石器時代の狩人は大型獣とともに移動し、仕留めて食べていた。生鮮食品とともに動いていたのである。その資源が尽きた次の時代は、まわりの植物を食べるようになり、定住化が起こる。そこでは身の周りに多様な食料をひきつけ(生きたまま)置くことが最も伝統的であり得策だったのである。その延長線上に栽培と貯蔵技術が発達したと考えていいだろう。

ベトナムの村と縄文時代のムラの相似点は、たとえば、中部山岳の縄文時代中期のムラは、比較的短期間で(土器1、2型式のうちに)廃絶されているものが多いこと、(三内丸山遺跡も含め)貝塚や湿地遺跡から驚くほど多様な食料滓が出てくることなど。

もう一つ付け加えるとすれば、佐々木高明氏(元国立民族学博物館館長)の言う縄文時代後期からの焼畑の作物は陸稲だったのではないか。近年、新しい科学技術によって多くの栽培植物の検出例が増えているが、そのほとんどはコメである。アワやキビは粒が小さいから見つけにくいという意見もあるが、やはり、コメの食糧としての優れた力が最大の要因だったと思うのである。

ベトナムの焼畑村

ベトナムの焼畑村

賑わうマーケット

賑わうマーケット

プロフィール

小山センセイの縄文徒然草

1939年香川県生まれ。元吹田市立博物館館長、国立民族学博物館名誉教授。
Ph.D(カリフォルニア大学)。専攻は、考古学、文化人類学。

狩猟採集社会における人口動態と自然環境への適応のかたちに興味を持ち、これまでに縄文時代の人口シミュレーションやオーストラリア・アボリジニ社会の研
究に従事。この民族学研究の成果をつかい、縄文時代の社会を構築する試みをおこなっている。

主な著書に、『狩人の大地-オーストラリア・アボリジニの世界-』(雄山閣出版)、『縄文学への道』(NHKブックス)、『縄文探検』(中公 文庫)、『森と生きる-対立と共存のかたち』(山川出版社)、『世界の食文化7 オーストラリア・ニュージーランド』(編著・農文協)などがある。

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