縄文時代のムラはベトナムの焼畑村によく似ている。バスの旅の途中、道路わきにある一軒の家に立ち寄って見学させてもらった。
屋敷内に入って目を見張った。穀物などの食料庫のほかに、高床の住み家の下にはブタ、ニワトリ、スイギュウ、イヌなどの動物がいっぱい。池には魚、アヒル、ガチョウ。屋敷周りには竹、バナナ、パパイヤ。小さな菜園には緑の野菜がつくられ、蝶が舞い、蜂が飛ぶ。
背後のゆるい斜面は、かつては焼畑でアワや陸稲がつくられていたというが、今では過度の使用のために常畑となって、トウモロコシやサツマイモ、キャッサバが植えられている。屋敷の下方はコメ用の棚田。畦道には野草や薬草。その他に、イノシシ、シカ、ハクビシン、野鶏、それに木の実など野生のものは高地民が売りにやって来るそうだ。古老の話では、「かつては彼らが、籠を背負い、一列になって山を降りてくるのを見たものだ。今はバイクで来るが」。これらはすべてマーケットで売っているものばかりである。村の食糧供給はまことに豊かだ。
焼畑民はもともと移動を旨とするため半定住的である。度重なる戦火をさけたり、国の政策による強制移住や農業集約化などもあったりして、この家もせいぜい50年ほどの歴史しかないという。すると、今見ているのは最近作られた風景と考えるべきだろう。
食料の確保は人類にとって最大の問題だった。まず、旧石器時代の狩人は大型獣とともに移動し、仕留めて食べていた。生鮮食品とともに動いていたのである。その資源が尽きた次の時代は、まわりの植物を食べるようになり、定住化が起こる。そこでは身の周りに多様な食料をひきつけ(生きたまま)置くことが最も伝統的であり得策だったのである。その延長線上に栽培と貯蔵技術が発達したと考えていいだろう。
ベトナムの村と縄文時代のムラの相似点は、たとえば、中部山岳の縄文時代中期のムラは、比較的短期間で(土器1、2型式のうちに)廃絶されているものが多いこと、(三内丸山遺跡も含め)貝塚や湿地遺跡から驚くほど多様な食料滓が出てくることなど。
もう一つ付け加えるとすれば、佐々木高明氏(元国立民族学博物館館長)の言う縄文時代後期からの焼畑の作物は陸稲だったのではないか。近年、新しい科学技術によって多くの栽培植物の検出例が増えているが、そのほとんどはコメである。アワやキビは粒が小さいから見つけにくいという意見もあるが、やはり、コメの食糧としての優れた力が最大の要因だったと思うのである。

ベトナムの焼畑村

賑わうマーケット