ホコリを展示するアーチストがいます。プライドの方ではありません。チリと積もるホコリのほうです。彼女は遠くイギリスから 群馬県の山間の中之条という町までやってきて、古いお屋敷の天井裏を掃除していました。
天井裏といっても、それは立派な板間の大きな部屋で、その家が栄えていた頃には養蚕のための蚕を飼っていたそうです。ケイティさんは毎日そこに通っては、きっちりと決めた数十センチ四方だけ、床板を拭きます。毎日同じところだけをきっかり一回ずつ雑巾掛けして、その雑巾は毎日きっかり同じ量のバケツの水で洗い、俳句を書くほどの大きさに切り分けた和紙を3分の一ほどその水に浸けます。
ケイティさんが自ら手漉きした和紙に、こうして毎日、その日拭き取られたホコリの量だけ濁った水の色が記録されます。水の色は毎日綺麗になってゆき、どんどん透明に近くなります。
同じ作業は ガラス戸の1部分や、階下へ続く急な階段の入り口でも行われました。正方形や長方形にホコリがきれいに拭き取られた部分がくっきりと鮮やかで、掃除されなかった他の部分から際立ち、目を引きます。
こうして イギリスからやってきたひとりの女性アーチストは、日本の山村の忘れられた天井裏の大きな部屋で、家主も知らない間に積もった年月を 和紙に映し出して展示しました。

Katy Arms さんによるインスタレーション作品
中之条アートビエンナーレ2013 六合地区湯本家
現在の主は長いあいだ家を離れ東京で暮らし、退職を機に故郷に戻ってきたそうです。ガードマンをして年金の足しにするという独り住まいのその男性は、中之条では皆がそうであるように、老齢を過ごすには大きすぎる家を持て余し、整理の機会にと、アートイベント会場の一つに貸すことを承諾しました。
静かに忘れられてゆく古い村の大きな屋敷の歴史、若いアーチスト達は、そこに眠っていた品々、書物、着物、日用品から祭事用の朱塗りのお膳類、そしてホコリまでを拾い上げ、それぞれの感性に従って見つめ直し、新しいアート作品として展示します。
若者たちが村人から、ひとつひとつの品にまつわる思い出話を聞いてインスピレーションを得たのであれば、それは民俗学とつながるでしょう。
うち棄てられた廃屋を発表の場として選び、そこで埋もれていたモノを掘り起こして、自らの解釈でそれらをアート作品として提示することは、これは立派な考古学的アプローチでしょう。
考古学では、アート&アーケオロジーという比較的新しい領域があります。
私の目には、考古学研究者が唱えるそれは、そもそも唯物的な論理の線上で見晴らそうとするために、アーチストの創作の根源となった情緒のゆらぎの部分に光が当たりにくい側面を見受けます。クラフトワークではなくアートというからには そういった人間のゆらぎとでもいうものを 民俗学的に追跡された心の歴史と合わせて 考察するべきではないかと思います。
かたや、アーチストを中心に進むいくつかのアート&アーケオロジーのムーブメントでは、考古学への理解が手薄で、例えば「縄文時代」というものからインスピレーションを得るといいながら、都合の良いところだけを取り上げて自分の流儀に使うといった、安易とも言える態度が少なくありません。
アートと考古学が互いを研鑽しながら、多様な人々に興味深く受け取られる形とはどんなものか、近頃私はアート&アーケオロジーというフレームを持ち歩いて様々なところに当てはめてみます。
瀬戸内アートトリエンナーレや、この中之条ビエンナーレのように、各地に広まりつつある地域ぐるみの展示イベントに、昨年は何度か出かけました。ゆらぎに満ちた普通の人々の生活の記憶をアーチストと村人がともに見つめ直そうとするこのムーブメントに、私は強く共感します。誰にとっても意味の深いアート&アーケオロジーが、そこに在り得ると思うからです。
行儀よく並んで風に吹かれている大きなリトマス試験紙のようなケイティさんの和紙には、だんだんと薄くなってゆく屋敷のホコリの跡がくっきりと見えます。その試験紙は、かつて栄えた中之条村の人々の静かな「誇り」も検知していたかもしれません。
安芸 早穂子 HomepageGallery 精霊の縄文トリップ