前回に続き、世界遺産候補「彦根城」の15代目の主だった井伊直弼について、少々語らせていただきたい。井伊家の14男、しかも側室の子として生まれているから、本来ならば歴史の表舞台に出ることない人生を過ごすはずだった。実際、32歳まで藩政とは関わりなく過ごしていたが、兄の養子になり運命は一変。やがて開国を強行したことで、1860年3月3日に暗殺……。程度のことは教科書を通して、はたまた何度か彦根を訪れて知っていたのだが、正直なところ、これまで強い関心があったワケではない。ところが、昨年、五百羅漢の景色に導かれて「天寧寺」を訪ねて以来、幾度となく井伊直弼のことを考えている。東京の記録的な大雪のせいもあるのかな……。
「天寧寺」は直弼の父親、直中が建立した井伊家の私的な寺だが、「桜田門外の変」の後、血にまみれた身辺の物一切が運ばれ、秘密裏に供養塔が建てられたという。ご存知のように、その日の天気は雪。現代ですら青森とは比較にならない少量の降雪で、慣れない地域は大混乱におちいる。当時なら、なおさらのこと。慌てて現場にかけつけ、哀しみに浸る間もなく雪道を彦根まで走った人のことを考えたら、涙があふれてきた。井伊直弼の命日は、公式には3月28日。幕府、井伊家、凶行に及んだ水戸藩士の体面を慮って事実がしばらく伏せられ、しかも発表された死因は病死。東京・豪徳寺に墓所があるものの、近年になり、地中には遺体がないことが判明している。
「天寧寺」のみならず彦根の町で「殿様」の話を聞くと、悪玉扱いされることも多いだけに、その分を庇うかのように慕っているのが伝わってきた。文武に秀で、藩主になった際には15万両を人々に分け与えた話も耳にした。一方で開国を強行した井伊直弼への国賊扱いは根強く、なんと第二次世界大戦の頃でも、彦根出身者はそれを隠す場合があったとも。逆に彦根城は「桜田門外の変」があったからこそ、美しい姿が残ったとの説もある。一件の後、幕府は手のひらを返したように冷たい態度を重ね、数百年に渡って忠義を尽くしてきた彦根藩は戊辰戦争の折に官軍側についた。そのため、譜代の代表格だった井伊家の居城「彦根城」は攻撃を免れたというのだ。
蛇足ながら彦根から少々南下した場所にある近江八幡の人々が、また異なる思いを紡いできたのも興味深い。織田信長の拠点「安土城」や豊臣秀次による「八幡山城」がかつてあったが、権力抗争の果てに城も主も消え去り、後に天領とはなったものの商人を中心とした自治都市に近い状態に。殿様には頼れない、自分たちで生きなければならないとの意識が、近江商人の精神の礎となったそうだ。歴史のひとコマは、長い長い物語の一部として未来のできごとと繋がっている。過去のあれこれを思いながら今の景色のなかに立つのは、酒を飲むとき同様に酔うひとときである。
ところで琵琶湖周辺といえば、「鮒ずし」もまた、その歴史を考えると世界遺産級の発酵食品だと思うのだが……などと書いたら、あらら、急に日本酒が飲みたくなっちゃって。申し訳ありませんが今回はこのへんで。あとは切ない歴史物語を肴に、たっぷり酔わせていただきます。

彦根・天寧寺の五百羅漢。
写真:松隈直樹

井伊直弼の供養塔。
写真:松隈直樹