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連載企画

小山センセイの縄文徒然草 小山修三

第33回 雪と縄文人 2014年3月21日

先日の大雪のとき、私の住んでいる奈良は10cmそこそこの積雪で混乱をきたした。高速道路は通行止め、宅配便は休止などのニュースが入ってきて、大阪での飲み会に行くのをやめようと思った。でも電車は動いていたので結局は参加したのだが、そこに来た友人の一人が、昼間シルバークラブの活動で「春日山(かすがやま:奈良県奈良市)の奥まで10キロ近く歩いてきた。楽しかった。」と言うのである。あやうく飲み会をキャンセルしかかった柔(やわ)な私とは大違い、感心するとともに、私たちの生活の原点は歩くことにあるのだと再認識した。

あの雪では山梨県は全県がマヒ状態になり、孤立する村が出てヘリコプターが出動するなど大変だったらしい。何故そうなったのか。それは今の日本が人やモノの移動を車や電気の力に依存するようになったためである。また、農産物にかかわる報道が、主食の穀類ではなく野菜や果物などのハウスの被害だったことに時代の変化を痛感した。

縄文時代、具体的には三内丸山遺跡の集落に雪は降り積もったのだろうか。集落が始まったころの気候は今より暖かで、年間平均気温は仙台くらいだったと言われている。それでも日本海と北の寒気団、それを受ける山という雪製造システムがあったのだから、しばしば大雪に見舞われたことは容易に想像できる。人々は雪と寒さに対応して工夫を凝らし、それを乗り越えていた、いや、そんな生活はつい最近、1960年代半ばまで続いていた。そのことは民俗学の記録に詳しいし、ある年齢以上の人たちの記憶に鮮やかで、縄文時代からの積み重ねだとも言える。

縄文人はふつう裸に近い姿で描かれていた。しかし、青森にしばしば行くようになって、南国育ちの私には冬という視点が欠落していたことに気づいた。縄文時代に思いをめぐらせるとき、自然の生活を美化して論じる傾向があるが、現実はそんな生やさしいものではないことは当然で、かれらは人力でその苦難を乗り越えてきたのである。一方で、大きな季節の変化が文化に刺激を与えたことは、東日本の縄文時代遺跡、遺物の豊かさが示しているといえるだろう。

雪という要素は確たる証拠がないため考古学者には取り上げにくい。それでも暑い夏と寒い冬の生活を対比して縄文人の生活全体を展示したり、論じたりすることはその生活復原のあり方をもっと豊かにするであろう。

雪の積もる三内丸山遺跡

雪の積もる三内丸山遺跡

雪の回廊(三内丸山遺跡)

雪の回廊(三内丸山遺跡)

冬祭り(三内丸山遺跡)

冬祭り(三内丸山遺跡)

プロフィール

小山センセイの縄文徒然草

1939年香川県生まれ。元吹田市立博物館館長、国立民族学博物館名誉教授。
Ph.D(カリフォルニア大学)。専攻は、考古学、文化人類学。

狩猟採集社会における人口動態と自然環境への適応のかたちに興味を持ち、これまでに縄文時代の人口シミュレーションやオーストラリア・アボリジニ社会の研
究に従事。この民族学研究の成果をつかい、縄文時代の社会を構築する試みをおこなっている。

主な著書に、『狩人の大地-オーストラリア・アボリジニの世界-』(雄山閣出版)、『縄文学への道』(NHKブックス)、『縄文探検』(中公 文庫)、『森と生きる-対立と共存のかたち』(山川出版社)、『世界の食文化7 オーストラリア・ニュージーランド』(編著・農文協)などがある。

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