ブルンは狩りの名人、若きリーダーとして村を支えていた。しかし、村の運営は困難で、喧嘩、口論、小競り合いがしょっちゅう起こり、時にはすべてを投げ出してしまいたくなると言っていた。そんな時は、村から離れた彼だけの泉の湧く森に行って座り、時間をすごす。
「オレはクビナガガメになり、暗く冷たい地下水脈をつたって生まれ故郷のアラフラ・スワンプにたどり着く。そこにはトーテムである鳥や魚や虫や草になった一族の人たちがいて、楽しい時間をすごす。そして、元気になり、やる気を取り戻して帰って来る。」と言うのである。
アボリジニにはドリーミングという創世神話があり、彼らは肉体と精神の世界を同時に生きているのだ。私は精神世界の方が比重が大きいように感じるのである。そうすると、次の話も説明しやすくなる。
コパンガは私が初めて住みついた村で、その後も機会があれば挨拶に立ち寄る。
「ゴチヤの姿を見ないなー」
「病気になって、村はずれの森で一人で暮らしている。食事はオレたちが運ぶ。」
訪ねて行くと、砂丘の高みの木の下に座っていた。
「どうだ、調子は。」
「・・・。」
話そうとすると不気味な咳が出る。
「ダーウィンの病院で薬をもらうといい。連れて行こうか?」
「ミー・フィニッシュ(もうだめなようだ)。」
と一言、それで会話は途切れて、あとは海を眺めていた。
あの時のゴチヤは、テレビで見た残雪の阿寒湖で横たわるシカの画像と奇妙なまでに似ていた。それは、死を待つ野生の(縄文的な)姿というべきだろうか。
しばらくして彼の訃報を聞いた。あの時、彼はすでにドリーミングの世界にいたのだなと分かった。
老後、介護に話を戻すと、平均的な日本人としてのサラリーマンは、現役を引退したあと、年金や保険によって悠々自適の生活をおくる。病気や老化によって動けなくなると介護施設に入り、やがて死を迎えることになる。かつてはそのプロセスを子供が支えてきたが、核家族化がすすんだためにそれが不可能となり、前もって徴収された金を軸とした基金を運用する行政が支えるシステムに変わったのである。
その運用が破綻しそうなのは、医療の進歩による老人数の増加と延命時間がのびたことが大きいと思う。死ぬ側にしてみれば何とも不安で不確定な時間が生じてしまったのである。植物人間になってでもとにかく生きながらえさせることがすべて、という現代医療の考えは正しいのかどうか、尊厳死という選択も議論されている。
死とはすぐれて個人的な問題なのだが、わたしたちは肉体(金銭)的世界に圧倒されてしまって、(縄文的な)精神世界への思いが痩せ細っているのではないだろうか。すべての責任を行政に押し付けるだけで問題が解決するとは思えないのである。

オーストラリア・アボリジニの村の踊り。神話が繰り返し再現される。