南極での調査捕鯨が禁止となって捕鯨環境はますます厳しくなった。
日本人は鯨を縄文時代から食べていたらしいし、中世には最高の料理素材、江戸時代には各地で郷土料理が発達している。それにもまして重要なのは、第二次世界大戦のあとの食糧難時代に日本人の動物性タンパク源として大きな役割を果たしたことで、あのまずかった給食の竜田揚げが今でも懐かしく語られるのはそのせいだろう。
いつか鯨が食べられなくなる日が来るのだろうか。
最近読んだ、岸上伸啓(国立民族学博物館副館長)著『クジラとともに生きる』(2014、臨川書店)は、アラスカのバロー村でクジラ漁を行っている人々の調査記録である。
現在この村は、石油資源の恩恵で極地の厳しい環境下で5000人を擁す現代都市になっているが、その中核をなす先住民は毎年、多額の金を持ちよって捕鯨を行っている。道具は無線機、爆弾付き銛、金属製モーターボート、スノーモービルなどを使うのだが、30人程度のハンター集団が氷原にキャンプをはって監視し、ウミヤック(皮張りのボート)で捕獲し、そのあと巨体を引き上げ村へ運ぶ、といった仕事の基本形は狩猟採集時代とまったく変わらない。なぜこんな無駄とも見える金と労力を使って捕鯨を行うのか、という疑問が岸上さんの調査の根源にあるのだが、それは1頭あたり1トンにもなる肉の分配とそれにともなう饗宴と祭りに原因があった。それは彼らの民族としてのプライドとアイデンティティの基なのである。
私たちは鯨といえば巨大なものというイメージが強いが、それはエイハブ船長の足をかじりとった怪獣、白鯨からきているのではないか。浜に座礁する「寄せ鯨」は、青森県では(もちろん古い記録で悉皆とはいえないだろうが)尻屋岬を中心として江戸時代末に7回、6年に一回くらいの頻度だった。(千葉徳爾著『オオカミはなぜ消えたか』1995、新人物往来社)人々の喜びはわかるが常食として期待するのはとても無理だったと思う。
縄文時代の鯨漁について考えてみたい。
鯨の骨は縄文時代早期から各地で出土しており、前期になると東釧路貝塚(北海道釧路市)や真脇遺跡(石川県能登町)でイルカ(体は小さいが立派なクジラである)が大量に捕獲され、それにともなう祭りの跡がある。また、儀礼に関係するらしい鯨の「骨刀」は三内丸山遺跡をはじめ北日本や北海道でいくつかの例が知られている。そして縄文時代以降になっても北海道にはシャチ像や漁具があり、下北にはイルカの棒突き漁もある。江戸時代末の捕鯨図を見ると舟や漁具には縄文時代との差はほとんど認められない。
私たちは、今の出土品に目先をうばわれたり、常識的にクジラは大きすぎるので漁をしなかったなどとしがちだが、その考えはあまりに消極的過ぎるのではないだろうか。
岸上さんは、北極圏では3000年前に鯨をとりはじめ、西暦1000年頃には捕鯨に特化したチューレ文化が広がったと言う。これに鯨類の分布などをあわせ、日本も含めた北半球でのクジラと人との付き合いの歴史を構築してみるとおもしろいと思う。

岸上伸啓撮影