この原稿を書いている8月中旬現在、イスラエルとパレスチナ自治区ガザとの戦闘は、まったくおさまる様子が見えない。実は今年の4月に彼の地を6年ぶりに再訪したのだが、少なくともあの時点において、街は穏やかだった。高級ホテルや洒落たレストランが増えた古都エルサレムをはじめ、史跡散策とともに美味美酒を満喫した実りある旅の幸せをお裾分けしたいものの、現状では叶わなず。せめて世界遺産を通して、イスラエルとユダヤ文化の背景にふれていただければと思う。
まずご紹介したいのは、2001年に世界遺産に登録された「マサダの砦」だ。約400メートルの岩山の上に紀元前120年頃に建築された要塞は、紀元前37年に王となったヘロデにより宮殿として拡張、増築されたという。救世主誕生の予言を苦にし、2歳以下の幼児を殺したとして知られる悪名高き王だが、新たな都市建設をはじめこと建築事業に関してはずいぶんと力を注ぎ、技術も発展したようだ。
断崖絶壁を横目にロープウェイで頂上にたどり着いてあたりを見渡せば、死海の端が目に入る以外は乾ききった世界が360度広がっている。にも関わらず、なんと10年間もの滞在に耐えられるほどのワインや食糧の貯蔵庫があったとの話は、にわかに信じがたかった。しかも周辺に降る限られた雨水を誘導し、たっぷりの水を蓄えていたとも。半信半疑のままで巡った後、ローマ式のサウナ風呂を目の当たりにしてようやく、ああ、ほんとうなんだと、実感がこみあげてきた。
しかしながら、「マサダの砦」を語る上で重要なのはそんな栄華の時代ではなく、66年から始まったローマ帝国との戦争だ。ローマ軍の攻勢にエルサレムが陥落した後、1000人近い人がこの砦に立てこもったものの、ほとんどが自決をはかるという悲劇的な最後を迎える結果に。その後も戦いは繰り返されたものの、135年の決定的な敗北により、ユダヤ教徒は世界各地へと離散する。この史実は、単なる昔話として継がれているわけではない。イスラエル軍の入隊式は、今も「マサダの砦」を望む場所で行われるのだ。「NO MORE MASADA」を誓いながら。
今回の戦闘が始まったとき、真っ先に思いだしたのが、岩山の上から眺めた景色だった。戦場で銃を手にした兵士たちは皆、マサダの誓いを胸に闘っている。なにやら重いものが喉にひっかり、飲み込むまでにしばらく時間がかかった。長い歳月を経て降り積もった数多の人々の思いを携えているのは、パレスチナ側も同様だ。人によって濃淡は異なるかもしれないが、継がれてきた民族の悲しみが、ぞれぞれの血に流れている……。この先、もう少々イスラエルの話を続けたい。

「マサダの砦」の突端の一部。奥にぼんやり見えるのが死海。
写真:松隈直樹

ローマ式のサウナ風呂。管をスチームが通るしくみ。
写真:松隈直樹