三内丸山遺跡で行われた9月の縄文大祭典に参加した。6日は、遺跡の現地説明会、各地で縄文遺跡を支えるボランティアのフォーラム、そして恒例のお月見コンサートと月の宴。7日はテント村に屋台が並んでいる。縄文を意識して手作り感が強いイベントだった。
この祭りは今年で16回になるという。あの頃は、三内丸山遺跡でイベントをやるというだけで、大勢の人が集まってきた。しかし、20年近い月日は長く(考えてみれば小学生がもう立派な社会人になっている)、一時的なブームはおわったのに、まだこれだけの人が来ることには驚きさえ感じる。これほど活用されている縄文遺跡は全国でも例がないのではないか。
お月見コンサートは会場いっぱいの人だった。おなじみの津軽三味線、ソプラノ、ビオラ、縄文太鼓。音楽だけではなく、衣装もロングドレスから縄文服までさまざまで、「縄文に統一できないかしら」とアーティストの安芸さんが横で呟いていた。しかし、私は今も縄文時代も似たようなもので、異なる地域から人が集まれば文化の混交がおこるのは当然だと考える。要素の好ましいものはとり、なじまないものは捨てる。そうやって文化は変化するのだから。
縄文時代にも、ここに遠く離れた地から人が集まって来たことは出土品が示しており、それを集約して表象しているのが祭りなのである。
彼らはどんな手段を使ってやってきたのかを考えてみた。内陸の人々は食料品やキャンプ道具を担いで歩いてきただろう。しかし、主役は海を渡ってくる集団だったと私は思う。六本柱の建物、大型住居、高床建物のある集落の中心部分から海に向かって立派な道路があった。それは港に続いていたはずだ(港は遺跡からはずれているので確証は得られてないが)。
すると、カナダで見たアメリカ北西海岸諸族のことが思い浮かぶ。この社会は規模や生業が縄文時代のモデルになるほどだからなおさらだ。祭りのクライマックスは次々とやってくる遠来の船を人々が迎えるところで、それぞれ民族衣装で着飾り(現代服も混じっている)、列をなして歩き、歌い、踊り、ポトラッチの大饗宴へとつながっていく。私が見たのは20年ほど前だったから、目の当たりに見た文化要素の混淆ぶりは今回の縄文大祭典とまったく同じだったのである。
秋は食料の採集や収穫も一段落し、気候がよく、海はまだ静かである。明るい満月の下で、宴を楽しむのは縄文人も私たちも同じなのだと思った。

三内丸山遺跡縄文大祭典「月待ち…縄文朗読会」(2014年9月)

カナダ・ビクトリアにて(1994年8月)