私たちの和食に対するこだわりは外国に行ったとき端的にあらわれる。そんなこだわりは歴史的にみると、いつ頃から生まれたのだろうか。
食の基本は素材で、身の回りの動・植物が利用されたために地域的な特徴があらわれる。和食の素材の主たるものはコメと魚である。日本の海資源の開発は縄文時代から活発になった。遺物をみると、クジラから猛毒のフグ、シャコやイカまで徹底的に研究・利用された跡があり、その伝統は現代にまでつながっている。
円仁(えんにん:慈覚大師、第三代天台宗座主)は平安時代の人で、最澄の弟子として若いころから秀才の誉高く、留学生として中国に派遣され9年間滞在した(838~847)。しかし、政情が不安定で反仏教的動きも強く、希望した天台山にいって学ぶことはおろか、滞在許可さえ取れなかった。それでも、なんとか不法ではあるが滞在だけはできることになった。幸い、五台山(中国山西省)には行けることになりそこをめざして旅をする。途中で高名な僧や寺を訪れ、精力的な情報(経典や仏画、儀式)収集をおこない、それを詳しく日記(『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』)に書き記している。
円仁は何を食べたのだろうか。日記を見ると、食事は寺で摂ることが多いが、旅行中は自炊、ときには旅館や民家で食べることもあった。食事はコメ(アワ、キビも)の粥が主でほかに団子、麺、餅、饅頭、うどん、餃子などのコナモン。茶、野菜(カブラ、ダイコン)、果実(モモ、ウリ、クリ、マツノミ)も食べている。調味料は酒、酢、塩、醬(油)、油、ゴマ。これらは日本で『延喜式』や木簡に書かれたのと同じで、稲作とともに弥生時代から徐々に形成されたものと考えられ、当時の東アジア・東南アジアと基本的に同じものであった。しかし、仏教僧はベジタリアンなので動物食は摂らなかった。
興味深いのは、旅の途中で遣唐使団から海松(ミル)と昆布(ヒロメ)をもらって大変喜んでいることだ。海藻は、世界的料理とされる中華、イタリア、フレンチにはほとんど使われない世界的にめずらしい素材だが、ダシや海苔巻きなど和食にはかかせないものだ。当時の中国内陸部ではとうてい手に入らないはずの素材なので、長く日本を離れて暮らす貧しい留学生のふるさとの味への想いのほどが偲ばれる。食に対するこだわりの萌芽がみられると言っていいだろう。
(参考文献 E.O.ライシャワー 『円仁 唐代中国への旅』講談社学術文庫1999)

円仁『入唐求法巡礼行記』 (出典:ウィキメディア・コモンズ)