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連載企画

小山センセイの縄文徒然草 小山修三

第44回 和食の民族学(その3) 幕末・明治の官製海外ツアー 2015年3月12日

私たちは母乳から始まって、以来日々なにかを食べている。食材は流通の発達した現代は遠隔地のものも多いが、基本的には身の回りにあるものを使うので、自然環境や文化によって大きな制約を受けるのである。松浦武四郎(まつうらたけしろう:探検家)が十勝で山越えを試みた時、冬籠りから覚めた熊をみつけたあと、案内役の空知アイヌたちが挨拶もそこそこに帰ってしまったそうだ。かれらは早春のふるさとの食、熊肉の味を思い出し、たまらなくなったのだろう。よく似たカンガルー狩りの話をアーネムランド(オーストラリア)で聞いたときは思わず微笑んでしまった。

日本人が海外に行ったときの和食へのこだわりは、食とは「刷り込み」であること、言いかえれば、知らないものは食べられない(食べたくない)と言うことも出来る。日本史の大きな変換期だった幕末から明治初期には、万延元年(1860)の新見(しんみ)使節団を嚆矢(こうし)とし明治10年(1871)の岩倉使節団までけっこう多くの団体が官費をつかい長期間にわたって欧米に派遣されている。
彼らは基本的に旅行中も和食で済まそうとしたらしい。万延元年の咸臨丸(かんりんまる)の積荷はコメ75石、醬油(7斗5升、一人1日5勺)、味噌6樽、香物6樽、焼酎7斗5升、砂糖7樽、茶50斤、小豆2石、大豆2石、胡椒2斗、唐辛子5升、ソバ粉6斗、麦4石、かつおぶし1500本、梅干4壺、酢6斗、塩鮭、野菜、乾燥物類と大量で、しかも飯、味噌汁、漬け物、煮物、焼魚というはっきりした和食の形が容易に想定できるのである。
これに対し、外での晩餐会やホテルでの食事については、飯の焚き方がまずいとか塩がたりないなどけっこう注文が多いほかに(ただし酒類に関する不満は少ない)、獣肉と乳製品への忌避感が強かったようだ。たとえば、岩倉使節団の報告には、大陸横断の先発隊がロッキー山脈で大雪に阻まれ「車をとどむること17日、パン、チーズ、ジャガイモで飢えを凌がねばならなかった」のは気の毒だったと書かれている。

日本列島には大型獣が少なく、動物性タンパク質を魚類に頼っていたので、鳥以外の肉は日常の食材に組み込まれていなかった。さらにつけ加えるならば、江戸時代中期から独特の料理法が発達したことを挙げてもいいだろう。そして、味の基調となったのは醬油、味噌および鰹と昆布のダシであった。新見使節団の帰途はアフリカ廻りだったが、外国人船長が醬油の匂いを嫌い捨ててしまったので100日間にもわたって彼らは口に出来なかったようだ。ようやくジャワで日本から輸出された醬油をみつけて大量に買い込み「身体肥ゆるが如し」と喜んだと書かれている。
使節団員のおおくは武士階級だった。彼らは鎖国と藩制というごく狭い環境下で、何世代にもわたっておなじような食を摂りつづけていたはずである。そんな「刷り込み」が和食への端的なこだわりとなってあらわれたのであろう。

それにしても、外国人に嫌われた醬油、海藻、米、生魚というスシを代表とする和食がいまや世界遺産になった。それは和食が食の本質を突いているからなのか、あるいは一時的な日本ブームなのかを考えておく必要があるだろう。

(文献)久米邦武編『米欧回覧実記(一)』1979 岩波文庫
宮永孝  『万延元年の遣米使節団』2005 講談社学術文庫

岩倉使節団 (出典:ウィキメディア・コモンズ)

岩倉使節団 (出典:ウィキメディア・コモンズ)

プロフィール

小山センセイの縄文徒然草

1939年香川県生まれ。元吹田市立博物館館長、国立民族学博物館名誉教授。
Ph.D(カリフォルニア大学)。専攻は、考古学、文化人類学。

狩猟採集社会における人口動態と自然環境への適応のかたちに興味を持ち、これまでに縄文時代の人口シミュレーションやオーストラリア・アボリジニ社会の研
究に従事。この民族学研究の成果をつかい、縄文時代の社会を構築する試みをおこなっている。

主な著書に、『狩人の大地-オーストラリア・アボリジニの世界-』(雄山閣出版)、『縄文学への道』(NHKブックス)、『縄文探検』(中公 文庫)、『森と生きる-対立と共存のかたち』(山川出版社)、『世界の食文化7 オーストラリア・ニュージーランド』(編著・農文協)などがある。

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