オリンピックの入場行進のときに、せいぜい5人くらいで行進するアフリカの小さな国の選手は たいがい民族衣装を着ています。そういうシーンを見て解説者が言いました。「伝統的な民族衣装には威厳がありますねえ」。この言葉の裏には「エチオピアのアベベ選手は実はランニングシューズくらい持っていたが、あえて裸足で走った」という東京オリンピックマラソン伝説早とちり説を考慮しても、「貧しいのでユニフォームが買えないのではないか?」という憶測も当然あるでしょう。ここでは「ユニフォームを買いたくない人々」という話をしたいと思います。
まずは、縄文時代の人々の服装について、よく見る復元イメージで私が気にくわないことから。それは人間の美意識に対する見くびりと 多様な要因を考えあわせた必然性への無関心をいかにも「ユニ」フォームな貧しい復元に見るときです。
私自身 縄文時代の人の衣服に初めて思いをはせた時には 自分がいかに人間を見くびっていたかと思いますが、実は現代人よりも古代人のほうが豊かにもっていたものをあげると枚挙にいとまないことからも、その思いがヘンなことは明らかだと思います。
私の場合、それにまず気づかせてくれたのは森や山岳地帯などに暮らすアジアの先住民、少数民族の身なりを学んだ時でした。
彼らは、村々で受け継がれてきた色や文様を手塩にかけて織込んだ伝統的な織物やアクセサリーで身を包みながら狩りや畑仕事や子育てをしていました。
都市文明が彼らにもたらしたものこそ、T シャツとゴムサンダルというシンプル極まりない労働着だったということを思えば、むしろ我々のほうが、「現代的な暮らし」の中で実用と利益だけを重んじ、豊かに身を飾ることをおろそかにしてきたことに気が付きました。
日々の営みに対する敬意と、衣服の色や文様が担っている精神的背景の奥深さを忘れては 古代人の装いの復元はあり得ないという考えはそこからきたと言えます。
幸か不幸か私はデビューのときから一貫して、民族学者が記録した貴重な民族例をワークショップやフィールドワークを通して体験的に教わることになりました。そこにあったものは 人間がその中で暮らす世界観の恐るべき多様性と、そこから生み出されるモノたちの驚きに満ちた奥ゆきの発見でした。
人間とは気まぐれで凝り性で情熱的で個性的な生き物だということを、マイノリティになった「未開」で伝統的な暮らしが強烈に主張している。彼らと衣服との関係は決して実用性だけではなかったはずです。
駅やコンビニに近いことが良いことで、庭のない家に住み、空を見ることもなく働き、ジャージで子育てをする我々が、古代人に貧しくつまらない服を着せることは とりもなおさず我々の精神世界の貧困が育てたイマジネーション力の貧困に他ならないと私は思います。
村人みんなが同じ服を着ているとする復元イメージのユニフォーム性をおかしいと感じない研究者は 人間の思いつきによるオリジナリティーやおしゃれ心を見くびっているし、縄文時代に社会的階級がなかったという自説さえ危ういものにしていることに気が付かないのでしょうか?狩りをする人たちが毛皮を顧みず わざわざ整然とした四角い織物を作り、村人全員がそれを着て手も足も無防備に出したまま虫だらけ、とんがった枝と株だらけの林と湿原を行き来する必然性とは、いったいどこにあるのでしょうか?
人間に飼いならされていない環境に対する逼迫した自衛の必要性、時計によって測られることのない時の中で取り組まれるものつくり、それらをつかさどる神や精霊への計り知れない恐れと敬い、何世代にもわたって一族に共有される物語。
このような世界での暮らしを想像しながら、自分がその陽当りのよい台地の村の広場で、 近所の人々と語らい子どもが十代になったら着せる服を作る。アーチストはそんなイメージのなかで古代人に近づいてゆくことができるはずです。やがては研究者にも声をかけてその「ユニフォームを買いたくない人々」のものつくりの輪に入ってもらうために。
安芸 早穂子 HomepageGallery 精霊の縄文トリップ