
縄文の祭り(部分)
京の水景色、高瀬川はかつて寺の普請の材木や蔵元の酒を満載した舟が行き来した水運の大動脈でした。歓楽街のネオンを映すその都会の川が、四条通を過ぎた途端にガラリと変わり、水鳥が遊ぶ牧歌的な風景に一変することは正しく京都の不思議でもあります。河原町の雑踏からほんの5分歩くと、高瀬川は老舗と町屋の家並みがいかにも古都に相応しいまるで別天地の静かな水辺となるのです。
私も学生時代を京都で過ごしたはずでしたが、何も知らなかったと今さらに思うのは、成行き上この京都のど真ん中のエアーポケット、高瀬川下木屋町地区の地域再生プロジェクトに関わるようになったおかげさまです。
この街には 何代にもわたって住み続ける生え抜きの人がいます。なかでも、戦中戦後の混乱を乗り越え、伝統行事を絶やさず執り行ってきた地域の重鎮が、今でも祭りや年中行事の要として、颯爽と自転車で走り回っておられる姿を見かけると、京都の町衆の底力そのものを見る思いがします。
一方彼らの次の世代は、高度成長の申し子らしく現代的な暮らしを求めこの街を去りました。古くからのしきたりや風景を美しいと感じ、そこに戻ろうとする若者は、今でこそたくさんいますが、企業と消費が王様だった時代には、古臭い因習にしがみつくようにしか見えなかった親父たちから若者が離れ去ることが当たり前だったのでしょう。
さて、残された頑固親父たちはすでに八十路の老齢でありながら、まるで不老不死の霊水を飲んだかのように高笑いして溌剌と自転車を走らせ、大暴風雨に見舞われた今年の祇園祭、山鉾巡行をためらうことなく決行しました。
そんな荒れ模様の祭りの最中に一人の親父さんが、私たち実行委員にそっと教えてくれたことがありました。山鉾巡行はほんの露払い。本当の祇園祭、夜にお出ましになる八坂の神の神輿の巡行が、私たちの拠点である川端の下木屋町通りを通るから、見ておけばよいと。
山鉾巡行が無事終了し、観光客も潮が引くように消えたその夜、暴風は収まったものの豪雨は続き、高瀬川も溢れんばかりに流れていました。「今晩はさすがにお神輿も巡行はせず、まっすぐお旅所へはいらはるんと違う?」ガランとした店で、我々は殆ど諦め気分でビールをのみながら予定時間をはるかに過ぎたお神輿を待っていました。
ところが、もう深夜になるという暗闇の中、降り止まない大雨の向こうから提灯の灯がやってくるではありませんか。闇の向こうから現れたのは、見たこもないくらいずぶ濡れの白い法被の一団、ホイットホイットという独特の掛け声を響かせて八坂の神がやってきたのでした。
神輿は、暗い闇から一瞬だけ、街灯の光に浮かんではまた闇に消え、降りしきる雨に濡れた氏子たちに担がれて、荘厳な神の社となって揺れていました。「ああ、ちょっとだけ見せてもらえたな」と、私たちは思いました。これが頑固親父たちが大切に護ってきたものか。
安心して手渡すその日まで、誰彼に言うでもなく、飄々としながら担いでいるが、実は必死で探しているものが何であるのかも私たちは見た気がしました。
大雨でも大暴風でも、迷わず馳せ参じて神さまを担ぎ出し、お旅所までお供をする、理屈を捏ねたり面倒がったりせず、ただひたすら受け継いでゆくものの共有。「これを担ぎ続けてくれる者を、あんたらは誰か知らんかね?」と、私はその夜、親父たちから尋ねられた気がしました。
古代から人が拝み信仰してきたものは、こういうふうにして受け継がれたり、失われたりしてきたのだろうな。
伝統を引き継ごうとする親父らと若者の間には、いつだって諍いがあり、葛藤があったでしょう。でも夜の神輿を担ぐ時には、そんなものは棚上げして親子がみんな神さまに肩を貸したのだろうなと、傘の中の私は思いました。
土砂降りのなか氏子たちの家々を巡り、体も透けて見えるほど濡れそぼった人々に担がれて、神輿はお旅所に辿りつきました。笙、篳篥の雅楽が演奏され、四条大路を埋める氏子たちのなかを、厳かに神はお旅所に入ってゆかれます。すでに時刻は深夜0時前、ニュースがこぞって「中止を懸念」と伝えるなか、たまたま出くわした観光客と、親父にちょっと教えてもらえた若者らが、世界に名を馳せる古都のお祭りの幕開けが今年も滞りなく執り行われた様を、驚きながらしっかりとこの目で見たのでした。

縄文の祭り(部分)
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