「考古学者は見つかってないもの=0とするんやな」、「それが大前提ですからね」、「幾何で補助線というのを習ったやろ、仮定の線を一本引けば答えがでる。もっと工夫がいるのやないか」。
民族学者の梅棹忠夫さん(国立民族学博物館初代館長・同名誉教授)とのそんな会話を思い出したのは海藻について考えていたからだ。海藻には殻や骨がないので何も残らない。だから、貝塚遺跡データベース※1を探しても何も出てこない。ここでは、海藻という「補助線」を使って縄文の食文化を考えることにしたい。
日本人の海藻食いは、韓国を除けば、世界でも類を見ないほどである。今、世界に浸透しつつある「和食」の味の基本は昆布ダシだし、目玉商品のスシも海苔で巻いてある。ところが欧米では海の雑草(seaweed)とよばれ食品としてはほとんど無視されて、町のレストランではお目にかかったことがない。ちなみに、わが家の台所の棚と冷蔵庫を調べてみると、コンブ、生や干物のワカメ、モズク、ヒジキ、アオノリ…。浅草海苔、寒天、佃煮、ところてん、昆布茶、お菓子…。何と多いこと。
日本人はいつ海藻を食べ始めたのだろうか。飛鳥時代には木簡や古事記をはじめとする文献、延喜式には海藻の種類は実に多く記されていて、それが諸国から税として集められ、貴族や僧侶、役人の食卓に供せられている。「海藻食い」はこの頃確立していたことはわかるが、それは突然そうなったのではなくルーツはもっと遡るのではないかと思う。
縄文時代は私たちが考える以上に物流が盛んだったことは、ヒスイや南の貝が東北地方にまで流れ込んでいた事実から明白である。とくに、人口が増えて社会が複雑化する前・中期には、交換・交易のネットワークができあがっていたと考えていいだろう。ここでは、山と海の地域の交流について考えてみたい。1960年代まで私の考古学者としての活動域は関東の武蔵野台地だった。ここは縄文時代中期の文化が花開いたところで、文化要素は中部山岳地方との共通点が多い。なかでも気になったのは黒曜石で原産地は主に長野県だという。もしこれが交易品であったならば、その代償は何だったのだろうか。それは海藻だったと今は思う。
干すことは、最も原始的な保存法である。また容量と重量が減じるので運搬にも好都合である。海藻に海水をたっぷりふくませて乾かす。もちろん魚や貝類もおなじである。「藻塩焼く」という言葉があるように塩だけをとる方法も考えられるが、食資源の乏しかった時代は、むしろ干物のほうが珍重されただろう。
縄文料理の基本はナベものだった。囲炉裏の上に土器を置き、水をたっぷり入れて材料を投げ込んで煮る。そこに塩のよくきいた海藻を投げ込む。山の人々にとって海の味と香りは格別のものだったにちがいない。すると和食の基本であるダシもまた、縄文時代に遡るのではないかとさえ思えてくるのである。
※1 総合研究大学院大学附属図書館の貝塚遺跡データベース

家にある海藻類

岩のり(鶴橋にて)