三内丸山遺跡がいち早く話題になった1994年の翌年のこと。
「あおもり草子」などユニークな地元情報誌を出している杉山陸子さんから、声をかけられました。三内丸山の市民の会をつくりませんかと。
一も二もなく賛成して、メンバーを呼びかけ、一般市民による三内丸山縄文発信の会は、誕生しました。(このあと、2003年に、NPO法人になりました。)
1994年の嵐のような三内丸山ブームのあと、縄文あるいは三内丸山は、じっくりとりくむべきものだと感じ始めました。
反省をこめて言うと、特にマスコミは、熱くなりやすく冷めやすい傾向があります。
すばらしいデビューを飾った三内丸山遺跡を市民のレベルで見守り、応援していきたいというのが率直な感想でした。
そのとき、シンポジウムでたびたびお世話になった森本哲郎さんにご意見を伺いました。
森本さんは、「単に、同好会では面白くないから、しっかり目標を立てるべきだ」とアドバイスされました。
そこで、縄文のセンターをつくることを目標に掲げました。
縄文のセンターというのは、縄文博物館あるいは、研究センターはたまた縄文の情報センターまでさまざまです。それを具体化していくのがこれからの課題です。
小山修三先生からは、「記録すること」の大切さを指摘されました。
「市民の盛り上がりが、三内丸山の特徴なのだから、その記録をしっかりやったら」
と言われました。そこで、発信の会の機関紙「縄文ファイル」をこの14年間毎月発行してきました。2009年10月号で、168号をかぞえます。
もう一つの活動の柱は、講師を招いて、東京・大阪・仙台・青森と各地で開く「縄文塾」
です。
さらに、11年前から始まった、年に一回のお月見縄文祭も、大切な交流の場になっています。
振り返ってみると、この14年のわたしたちの歩みは、より深く、より内面で、縄文の世界を知りたいという願いでした。
「こころ縄文人になろう」という合言葉も、そんな気持ちの表れかもしれません。
その意味で、縄文は、実に息の長いテーマだと思います。