スターウォーズは「昔々あるところに・・・」の書き出しで始まる宇宙の騎士伝説、未来のおとぎ話ですが、文字がなかった縄文時代、物語はどのように伝えられたのでしょうか。真っ暗な夜に焚き火をたいて、村の大人たちが 子どもらに語り聞かせたのでしょうか。
炎を見つめながら、日々見聞きするあらゆるものの記憶から、彼らの小さな集落を囲む広大な世界へと、心を自由に羽ばたかせる物語を、誰もが楽しみに聴いたのかもしれません。
文字を持たない先住民たちが言い伝えてきた物語は、言葉と音による記憶のライブラリーだったと思います。記憶装置の「進化」がアナログレコードで止まっていたら、縄文時代とあまり変わらない記憶の新陳代謝のダイナミズムを、我々はもっと楽しむことができたのかもしれません。
レコードから流れる音楽や音声を聴いてイメージする世界は、時間が伸び縮みし、瞬時に広大に深化したり、ゆっくりと浮遊したり、また知らぬ間に変身したりします。言葉や音楽による表現と伝達は、ダイナミックに溌剌としたイマジネーションの躍動を最も備えた方法だったのではないかと思います。
擦り減ったり、傷がついたり、不注意で壊れてしまうアナログレコードの特質は、しかし記憶装置の進化と共に、だんだんと許容されなくなってきました。
20世紀を「記憶に関わる技術が革命的に発達した世紀」であったという人がいます。
戦争の世紀とも言われる20世紀、記憶を記録化する装置は、常に人類の劇的な技術躍進の契機となってきた戦争の成果としても発達しました。そうだからでしょうか、私たちは記憶が持ち合わせていたあやふやさや喪失性を、おおらかに残そうとはしませんでした。記憶を記録化し、整理しファイル化して、映像としても文章としても可能な限り明確に残すことに膨大なエネルギーが使われてきたのです。
人々が想い描いた夢の装置は、そのような経緯の後、21世紀になって誰でもがポケットに入れて持ち歩けるようになりました。今ではその装置を覗きこむ時間の方が、現実を生きている時間よりもはるかに多い人もいるほどです。肌身離さず持ち歩き、毎日見つめて過ごす人間の外付け記憶装置、その四角い薄いタブレットに、しまわれているたくさんのものの中には、本当は知らなくてもいいことや、忘れてもいいものがたくさんあるように思います。
忘れることができるということは、人の心が自由に羽ばたくことと同じことではないかと思うのです。音や形や、日付けや時刻までもがきっちりと書き込まれた記憶は、知らぬ間に姿を変えることを許されないプラスチックのようなものに思えます。鮮明だった喜び、悲しみ、愛おしさや憎しみが、風化してすり減ったり、さび付いてぼろぼろに朽ちたり、姿を変え消え失せることは、私たちが本来持っていた心の自由だったのかもしれません。思い出が少しづつ形を変えて、淡くなったり消えたりする自由を、いつの頃からか、私たちは自分から奪い去ってしまった気がします。
21世紀のおとぎの世界は、この上ないリアリティを追求した映像や音声から成り立っています。ゲームにしても、SIRIにしても、それらはあたかも存在しているかのような設定で提供されます。仮想の冒険物語に入り込んで、誰かが作った記憶の迷宮をさまようことのほうが、取り返しのつかない現実に生きるよりはずっといいのだということは、わかる気がします。いつのまにか私たちは、自分の記憶と他人が仕組んだ記憶の境目を見失い、五感全てを使って、誰のものでもない物語を仮想体験することに魅了されてしまった。
刻々と変幻する美しい惑星に生きながら、一つとして同じでない森羅万象のディテールに見入ることもなく、21世紀の人々は、お金を払いながら人生の大方の時間を浪費しているように思えます。物語は痩せて荒れ、刺激だけが増し、豊かな彩の記憶がどこから来たのかを思い出せない世代が育ってゆく。
世界が最も美しく輝く瞬間に万が一出逢えたとして、その瞬間に私たちは何をするのか?もちろん、あわててタブレットを取り出して記憶させるのです。自分の眼で見ることも無く。。。「昔々、不思議な時代がありました。四角いハコ無しにはモノを見ず、記憶もせず、会話もせず、そこから伸びている栓で耳をふさいで暮らしていた人たちの時代です。」未来の考古学者がこのような発表をする日があるかもしれないと、ふと思います。
安芸 早穂子 HomepageGallery 精霊の縄文トリップ
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