縄文人がどのようにして食事を摂っていたのか、とくに具体的な食卓の光景がどうしてもイメージできないで困っている。食材に関しては貝塚や洞窟、最近では湿地での調査によって多くの素材がつかわれていた。三内丸山遺跡だけでも哺乳類、鳥類、魚類、甲殻など70種にちかい。なかには海から山へ、遠隔地まで運ばれているものもある。国際シンポジウムでK.C.チャン教授(イェール大学)が縄文人の食はbroad-spectrum(幅広い=何でも食べる)だと驚いていたことを思い出す。
素材の処理については、大型の肉は石の刃物で切り分けたり、刻んだりする。素材を石皿で磨り潰してミンチにしたり、パン状にすることもある。それを焼いたり、灰に埋めたり、石焼料理のように加熱するのである。ほかに、生食や保存をかねて干す、漬ける(醗酵させる)などの方法があったことは、出土状況や狩猟採集民の民族学的記録によっても明らかである。
調理された品をどう盛り付け、食べたのか、縄文の食卓について問題が難しくなるのは調理に土器が大きな役割を果たしていたからである。大型の土器が煮炊きに使われたことは、器の内面に残る残滓から確実である。したがって、私たちはそれを今の雑炊や鍋料理と同じだと考えてしまう。
もし、大鍋でぐつぐつ煮るのが縄文人のメインの料理であったとすれば、熱い料理を取り分けるシャモジ、小鉢、箸や串などの道具が必要である。手掴みでと断じるには苦しいものがある。日本の土器研究は大変盛んだが、住居内の家族用から儀礼にかかわる集団が使った場での容器の比率について数的分析をもっと進めてほしいと思う。いまのところ食を口に運ぶための小型の道具は少なくとも後・晩期になるまでほとんど見当たらないからである。
オーストラリア北部・アーネムランドの村での経験では、火の中から取り出す肉は、熱いけれどすぐ冷めるからいいのだが、容器を用いるようになった今でも熱いスープを飲んでいる人は見かけなかった。彼らはネコジタなのである。スープといえば思い出すのは西洋ではフォークが普及するのは早くとも16世紀、それまでは汁を飛ばした煮っころがしの状態にし、それを手づかみで食べていたという。彼らもネコジタだったに違いない。
日本人は 熱々のうどんを、ふうふう吹きながらずるずる啜りこむのが当然と思っているが、これは世界的に見ても特殊な食べ方である。食とはそれぞれの地域で発達したもので、それゆえ文化的な縛りがきついシステムであることは、幕末の外国人の接待や使節団の記録に如実にあらわれているし、現在私たちが外国に行っても同じ経験をしているはずだ。食を地域的な文化ではなく世界に通じる文明として捉える文化人類学者の石毛直道さんの近著を見て縄文人はネコジタだったのではないかと思った。
参考文献 石毛直道『日本の食文化史-旧石器時代から現代まで』岩波書店 2015
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小山修三が書評を書いています。どうぞよろしく。

三内丸山遺跡から出土した縄文土器(さんまるミュージアム展示)