ドローンは正式にはUnmanned aerial vehicle(UAV)と言うのだそうですが、そのニックネームdroneには、「オスの働き蜂」と言う意味もあるそうです。飛行音がハチの羽音に聞こえるからとのことですが、なぜただのハチではなくて「オスの働き蜂」なのかと言うあたりが面白い話になります。
三内丸山遺跡公園の調査研究のため、管理部署の許可を得てドローンを飛ばす現場に立ち会う機会がありました。その時に見た画像の風景を、目線の印象記として語ってみると。。。
そもそも、私がドローンの動画を始めてみた時に、「あれ !?」と思った違和感は CG(コンピュータグラフィックス)を始めて見た時の違和感とは対極にある「感慨」でした。80年代、NASAが発表したボイジャー計画の宇宙空間フライトイメージで、私は初めてCG動画を見たと思いますが、その時の「あれ !?」は、手描きでは見たことのない、隙のないリアリティ、具体的に言うと、質感の無いのっぺりした立体感と、アニメーションで初めて見る本当に一部の隙もない影や動きの整合性、だったと記憶しています。
つまり、CGは人間業を超えた、「精巧で隙のない」デジタル技術の産物であることが、手描きの超オーガニックイラストで食っていた当時の私に、忘れられない違和感と「これは勝ち目がないぞ」という危機感を抱かせたわけです。
それに対して、最新鋭撮影機ドローンが持ち帰る動画を見た時に、私が眼をとめ「あれ !?」と感じたのは、見たことがないその身体的な視点の動きと距離感でした。実のところ それは、CGを見た時のデジタル文化隆盛への抗いがたい予感とは反対の、身体的リアリティをもった新鮮な好感触でした。
ハチに例えるのは変ですが、「オスの働き蜂」ドローンと対比すると、CG技術は「女王蜂」で、たくさんの子どもを孵し、新しい女王蜂もたくさん育ったように見受けます。今やCGを見かけない日はなく、架空の整合性をもったクールなイメージが、そのリアリティで現実を凌駕している体ですが、そこには常に影のように、制御不能な進化への恐れのようなものも、垣間見えるのではないでしょうか。女王蜂のグロテスクに巨大で無感情な姿とCGは、そこが重なる気がします。
ともあれ、そんな立派な征服者であるCGデジタル創造が生み出した「オスの働き蜂」ドローンは、正しく女王に仕える働き蜂で(オスは女王と交尾するだけがお仕事で、普段は巣でぶらぶらしていて、交尾が終わると生殖器が母体に残されて死んでしまうんだそうですが・・・)巨大なデジタル世界の新兵さんよろしく、命ぜられるまま飛び回って、画像を撮影することだけが使命のようです。
しかし、その画像は、最新の技術が初めて成し得た超低空飛行の目線、自在に小回りが利くハチの飛行目線からとられた、現実世界そのものです。
私たちが日々暮らす見慣れた現実世界そのものを、ドローン目線は全く新しい視点から、新鮮に再発見させてくれるということに、私は直感的に魅了されたのでした。
その画像は、既知の世界の新しい客観視目線であるのです。
それがどこかで見た風景に感じられるのは、危うげに飛行する自分が夢の中で見た風景だからかもしれません。知っているはずの日常の風景が、空撮ほどの非現実的距離ではなく、音や臭いの日常はそのままに在りながら、眼だけが現実からかい離し、上空へと漂い出て見放つような、それは見たことがない既知の世界です。
それはあたかも、死に瀕した人の魂が身体から解き放たれて、現実とあの世の間を漂う眼差しでもあるかと、私には見えるときがあります。生殖と死だけが隣り合わせにある「オスの働き蜂」の、きわどい運命の羽音を響かせて、すぐそこの空を飛ぶこの飛行機械は、それほどに深遠な、長い間思い出せないでいた世界の見方を、ようやくと私たち人間に思い出させてくれているのではないかと、私は深く感じ入るのです。
三内丸山遺跡で、立ち木に引っかかりながらドローンが持ち帰ってくる動画を見ていると、縄文時代にも現在と同じに、この地にいたであろうイタコのようなシャーマンが、あの世とこの世の間に魂を漂わせるとき、こんな風景を見たかもしれないと、私はふと思うのです。
安芸 早穂子 HomepageGallery 精霊の縄文トリップ
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