青森県をひっくり返すと、鹿児島県の形になる。数年前に共同で行われたイベントの際に知った“事実”は、りんごとさつまいもを合わせたパイの旨さとともに衝撃的だった。その後ご縁が重なり、離島を含めた鹿児島県へと頻繁に旅しているが、歴史、美味、人の気質などなど、何度訪ねても発見が多い。九州南端の離れたエリアだけに、青森県出身のわたくしは文化の異なりを強く感じるのだろう。同時に端っこどうしということで、親近感も抱いている。
その鹿児島県で昨年、「明治日本の産業革命遺産」の構成資産として世界遺産に登録されたのが、「旧集成館機械工場」をはじめする製鉄、紡績、造船などによって近代化を目指した施設。薩摩藩11代藩主の島津斉彬が進めた、集成館事業の要だ。国を発展に限らず、産業を興すことで人の暮らしを豊かにすることを最終的な目的としていたのは、当時としては極めて稀な時代に先駆けた意識である。斉彬に影響を与えた祖父、8代藩主重豪による筆書きのローマ字も残るが、黒船来航のはるか前から島津の殿様たちは海の向こうをみすえていた。
日本の南の玄関口となるロケーションもさることながら、地元の人にその先見の明の理由を尋ねた際、桜島の存在を口にしたのが印象深い。人智ではかなわない桜島を日常として受け入れてきたからこそ、一時期は英国と敵対しつつも、やがてしなやかに身を転じて、その文化や国の在り方を学ぼうとしたのではないかと。
「敵となる人こそは わが師匠ぞとおもひ返して 身をたしなめ」
これは島津家の中興の祖、忠良公が16世紀につくったといわれる「いろは歌」のひとつで、薩摩藩士の精神の礎になったそうだ。西郷隆盛や大久保利通、朝ドラで俄然注目を集めた五代友厚の心にもきっと、しかと刻まれていたに違いない。そして彼らは、故郷に帰るたび、桜島を見ながら気持ちを新たにしたことだろう。
今年、桜島が久し振りに噴火した際、SNSには先々を懸念する声があふれたものの、地元の人たちはいたって落ち着いていて、ともにある生活をあらためて実感した。多少の雪や吹雪で、青森に暮らす人が動じないのと同じだ。端っこというだけではなく、圧倒的な自然の力との共存という点を考えれば、青森県民もまた薩摩隼人とどこか似た精神を秘めているのか。故郷を離れてしまったわたくしからは、その大事なものがとうに失われているのだろうなと思うと、少々切ない。

殿様御用達だけあり、仙巌園からの桜島の眺めは圧巻。
写真:松隈直樹

ガラス細工の薩摩切子の製造も、集成館事業の一環だった。
写真:松隈直樹