夏は祭りの季節。最近、感じることはどの地域でも祭りの装置が年々大きくなり、衣装も華やかになっていることだ。それは、日本が経済的に豊かになったことを示すものだが、ほかに「人口減少の時代に入った」という時代背景があるようだ。統計によると2040年までには現在の市町村の半数近くが消えてしまうそうだ。だから、政府をはじめ地方行政はやっきとなって対策を打ち出しており、その1つが観光産業を起こす案である。
人口減に対する策として最も手っ取り早いのは移民である。しかし、それによって生じる社会混乱は世界のニュースで痛感している。それよりも、観光によって活力を取り返そうとするやや迂遠な計画のほうが適切であろう。縄文時代からの人口史をみてきた私としては列島内で1億をこえる人口は多すぎ、江戸時代の3500万人ぐらいでゆったり暮らすのが適当だと考える。
ねぶた祭は日本を代表する祭りの1つで、無理をしなくとも人が集まり、熱気もすごい。宗教色をあまり感じさせないのも現代的である。ねぶたの起源については諸説あるが、灯篭流し、つまり先祖を迎える盂蘭盆会(うらぼんえ)がその基にあるだろう。論が飛躍しすぎるそしりを承知で言えば、そのルーツは仏教以前にさかのぼると私は考えている。時代的に言えば「装置」とそれに伴う制度が縄文時代後期に確立したことは、モニュメントと呼ばれる巨大な盛り土や環状列石が北海道から中部地方にかけてあらわれ、そのほとんどが埋葬に関係していることからわかるのである。
人の死の難しいところはそのタイミングが予想できないところにある。しかし、遺体を長期間放置する殯(もがり)、一度埋めた骨を再び取り出して祀る再葬という行為を挟むことにより定期的・社会的な祭りの行事に変えていったことは歴史書や民族誌が示しているとおりである。
議論好きの学者は、祭りの意義を儀式や祭儀などについて論じるのだが、(それが無意味だとまではいわないが)、私は地域集団のエネルギーを引き出すことに根本的な意義があると考える。人を集めることはどんな社会にとっても最も大きな課題であった。縄文時代も集中して押し寄せる回遊魚、木の実や草の実を収穫し保存するために人力の集中が必須だった。それによって、食料だけでなく物資(文化)の交流、部族間の勢力争い、そしてDNA(結婚相手)の交換、それはどんな小さな社会にも共通していることだ。祭りはそれを円滑化する手段だった。そのための荘重な儀式、大盤振る舞い、歌、踊り、危険を伴う見せ場、おしゃれ、プレゼントなどなど、仕掛けが詰め込まれていたのである。
前回の御柱祭でも述べたように東日本には、西日本の稲作社会とは異質のサイクルを持った成熟した社会があった。その痕跡はいまも強く残っていると私は感じている。

青森ねぶた祭

小牧野遺跡の環状列石(青森市)