縄文人はカミをどう考え、イメージしていたかを考えてみたい。
宗教人類学者の中牧弘充さんと話していて御柱のルーツは縄文にあると意見が一致した。柱を立てるまつりは北半球の針葉・広葉樹林帯の社会にひろく認められるものであると。
(小山) ところであの巨大な柱は何だ?
(中牧) 憑代(よりしろ)である。カミがやどる。
(小山) するとずるずる引っ張っているとき、カミはあの上に寝そべっているのか?
(中牧) ???
私たちはカミを人間の姿にイメージしがちだが、人間に引き寄せすぎるとそんな俗っぽい連想におちいってしまう(カミさまにはわるいけど)。
古代ギリシャではカミたちは、恋愛したり嫉妬したり喧嘩をしたり、人と変わらぬ生活をしていたと語られており、その姿を絵や彫刻にリアルに描いた。その伝統はローマのキリスト教(カトリック)にひきつがれ、創造神、イエス・キリスト、聖母マリアだけでなく聖人の像も盛んに作られている(ここで詳しく説明するスペースはないがインドや中国でも偶像を盛んに造っている)。
それに対して、イスラム教は人の顔や像を作ることを禁じている。だから、かけがえのない文化遺産であるバーミヤンの仏像など簡単に爆破してしまうのかもしれない。ところが、今はインターネットをはじめ写真が氾濫する時代なのでかれらは処理に苦しんでいるはずだ。偶像(写真)を嫌うことはどの社会にもあり、オーストラリアの調査では写真を撮るのに大変苦労した。それは私たちも例外ではなく、テレビや新聞の顔の写真にボカシを入れることがそれを示している。
縄文人はカミをどうとらえていたのだろうか。遺物としては土偶が人のかたちをしている。はじめはごく小さくのっぺりしていたが、中期頃からは、サイズの大きいものがつくられ、表現もリアルになる。しかし、顔を省略したり、奇怪な面をかぶったりして人間的な感じはあまりしない。土偶はお守りとか奉納品、あるいは呪具だったのではないか。動物まで偶像の視野に入れると中部山岳地帯にヘビやイノシシなどのリアルな像がある。しかしそれも一時的で、すぐに模様化され記号になってしまう。すると基本的には縄文人はカミを偶像化しなかったと考えられる。
仏教が移入されてから日本人の信仰のかたちは大きく変わった。とくに、仏のすがたが偶像として崇拝されたことが大きかった。土着の山岳信仰である修験道では本地垂迹説によってカミと仏は2つの姿で説明されるようになった。しかし、カミの姿が人として描かれることはほとんどない。そうかんがえていると、「何事のおわしますをばしらねども かたじけなさに涙こぼるる」と詠んだ西行の歌が心に響く。人だけではない、山でも、石ころでも、花でも、すべてがカミそのものであるという考えこそが、自然に生きた縄文人の心の風景(哲学)だったのではないだろうか。

日本人は山や木そのものをカミとみなす
(青森県弘前市の史跡大森勝山遺跡の環状列石と岩木山)

日本人は山や木そのものをカミとみなす
(青森県十和田市の法量のイチョウ(国指定天然記念物))