日々のニュースが伝える出来事からは、私たちが暮らす21世紀の世界が、刻々とひび割れ、崩れ、カケラとなって飛び散っていくように見えるときがあります。あちこちで、何かが壊され、バラバラになったり、再編されたりしています。
一方、考古学者のように、壊れたものを元どおりに修復しようとする人がいます。また、壊れたもののカケラを、新しい形に創りなおす人がいます。職人は、伝統を受け継ぎながらも、現代の暮らしに役立つものへと生まれ変わらせます。芸術家らは、人々の記憶の中から拾い上げたカケラに、新しい命を吹き込みます。

京都祇園の中心、建仁寺境内にある塔頭、両足院で開催された展覧会
それ以外にも、カケラをつなぎ合わせる方法はいくらもあります。この展覧会を準備してきた2年間の間に、私が掘り出そうとしたものは、千年の都であった京都に流れた長い時間の中に、バラバラになって埋もれているカケラのいくつかだったかもしれません。
それらに宿る忘れられた機能や、誰かの記憶や、取るに足らぬ小さな営みの断片を、新しくつなぎあわせて、現代の人々が使える器、おもしろいものが入る器をつくろうとする、それは試みの始まりである気がします。
考古学と言う新しい眼と、アートと言うしなやかでポジティブな感性を用い、人と人の出会いを取り持つことで、この展覧会の準備は進められてきました。

京都府指定名勝庭園を望む書院での展示の一部。インターナショナルスクールの生徒らが、自ら家族に取材し、粘土や紙で復元した「故郷と家族の記憶を宿すもの」が収められた小さな箱と、
彼らが現代のゴミを妖怪化して描き出した「今百鬼夜行絵巻」。
考古学は、人々が古都の過去を見なおす新しい眼であり新鮮な切り口でした。
多くの史実に彩られた歴史の都では、為政者や有名人によって書き記された過去の出来事は誰もが知るところです。しかし、貴族の屋敷でも、長屋の共同井戸でも、等しくカケラとなったモノと対峙し、埋もれている記憶をことごとく再発見しようとする考古学は、何世代もの背景を生きる古都の住人たちに、様々な方法で過去を振り返る眼を開くことができます。

Garden of Fragments(カケラたちの庭より)と題された展覧会 ご本尊の前に展示された「カケラ」たちと、
記憶に刻まれた日付だけが刻印された「陶の経典」の間で、毎日早朝のお勤めが執り行われていた
過去を覗く新しい眼、考古学をもって、現代に生きる人々が再発見した過去のカケラを、アートの感性は、今の私たちにとって大切なものへと育てることができるでしょう。不確かなものを感じ取り、個性的に表現し、結論は人々にゆだねるアートは、考古学を新しい資源として開拓し、また考古学が人々と結びつくときの化学反応を引き起こす触媒ともなります。
伝統的に重要な役割を以て存在はしていたが、現代では町のあちこちでバラバラになっている人々の集まり、世代の隔たり、町衆、学生たち、親と子ども、大学と研究者、職人、そして芸術家たち。それらの人の何人かに声をかけ、出会いを持ってもらい、アートという柔らかな糊を用いて、ゆるやかに、しなやかに、つながりを育む。この展覧会の実りは、展示そのものにあるというよりも、ここに展示を以て集まろうとしてくれた多様な人々の新しい結びつきにあるのかもしれません。

「形から思考へ」のコンセプトの展示は書院床の間から始まった。襖には、3D映像の窓も。
「アートと考古学」アーチストと考古学者とがまじりあった糊を用いて、私は古都の町でカケラとなっているいくつかのものをつなぎなおしてみることを、自分の身の丈に合うだけのところで実践してみました。器はいまだにその全体の姿を決めかね、多くのカケラはまだ見つかっていません。「アートと考古学」が生み出すモノは、形をもったものではなく、ソーシャルネットワークなど、むしろ現代の人々の繋がり方に近い共有の形、を現すのかもしれません。
この試みは まだ始まったばかりです。

方丈奥の間、土地の記憶と素材の展示は、枯山水の中庭から吹き込む風を孕んで揺れ、夕日に輝く。
安芸 早穂子 HomepageGallery 精霊の縄文トリップ