5600年前(C14年代測定による)のカボチャの種が山形県遊佐町の小山崎遺跡から出たというニュースをみた。これについての反応は、(1)原産地がメソ・アメリカなので(伝播経路がたどれず)にわかに信じがたい、(2)出たことは事実なのでこれがスタート地点である、という2つの意見に分かれている。わたしはもちろん(2)の側だが、それでも「縄文時代前期、しかも日本海側」というのが重くのしかかってくる。栽培植物に関しては植物学者にふりまわされた感があり(こちらの素養不足とはいえ)、いくつかの痛い思いがある。
その一つがリョクトウである。1970年代に鳥浜貝塚からリョクトウ(という説)が見つかったことが国際シンポジウムAffluent foragers(狩猟採集社会の成熟)で報告された。ところが、出版にあたってアメリカ側から「信じがたい」と強硬なクレームがついた。編者として困ってしまい、それでも何とか押し切ったのだが、後味の悪さが残った。ところが、今日ではこれは野生種のヤブツルアズキであると落ち着いている。しかも、その分布域に入る日本でアズキが栽培化された可能性すらあるという。さらにいえば、おなじ豆類のダイズも野生種のツルマメの栽培化が日本で始まったという説が出ている。これは圧痕レプリカ法(土器についた圧痕にシリコンを流し込んでサンプルを作成し、電子顕微鏡等で調べる)で明らかになったので、混入ではないことは確実である。
もう1つヒョウタンが思い浮かぶ。これも鳥浜貝塚から出たものだがアフリカ原産とされていたので、拡散の道が分からない。そこで、植物学者の中尾佐助先生に聞きにいったところ、「ヒョウタンは海にぷかぷか浮いてきたのかなー」といういかにも先生らしい答えだった。これについても、最近ではDNA分析が加わって東アジア原産の可能性もあるとされている。
こうみると5000年前までに日本で発見された栽培植物の数の多さに驚く。主なものでもアサ、ウルシ、エゴマ、アブラナ、ゴボウ、アカザ、ヒエ、ダイズ、アズキ・・・。この時代すでに、立派な農耕文化があったと言ってよく、そう認定しないのを外国の考古学者は不思議がる。その理由として、日本では縄文時代は狩猟採集段階にあり、農耕が始まるのは弥生時代からとされていたからである。そのため、栽培植物はすべて弥生時代以降に大陸から伝わったものと断じられていた。とくに野菜類については辞書などにはそう書いてある。それはやはり学問の主流が文化一元論であったからである。つまり、中東(メソポタミア文明)に「肥沃な三日月地帯」があり、そこで栽培化された小麦(他の栽培物も)が世界に伝播したというヨーロッパで構築された理論がそれである。考古学でも.チャイルドの文明論が大きな影響を与えていたのである。
過去を語るには理論ではなく実物ほど雄弁なものはない。世界各地の遺跡で栽培植物やその祖型の野生種の微小な細片や炭化物が取り上げられて同定され、その絶対年代がわかるようになると一元論は成り立たなくなり、さまざまな栽培物が各地で独立的に発生した「多元論」へと塗り替えられている。いまや、考古学は土器や石器などのモノだけを扱う文系の学問ではなく、環境学、植物学、農学、遺伝学など多くの分野の研究者とコラボする総合科学への道を進み始めているのである。
(参考文献)
朝日新聞デジタル 2016年9月27日 「山形)縄文前期にカボチャ?遊佐・小山崎遺跡から種子」
江頭宏昌編 2016 『人間と作物―採集から栽培へ』 ドメス出版
佐藤洋一郎 2016 『食の人類史 ―ユーラシアの狩猟・採集、農耕、遊牧』 中央公論新社
工藤雄一郎編 2014 『ここまでわかった!縄文人の植物利用』 新泉社

遊佐・小山崎遺跡でカボチャに似た約5600年前の種子が発見された
= 遊佐町教育委員会提供