三島に住む友人の案内で、富士の裾野にある有名な清流、柿田川を、ついに訪れる機会がありました。この小さな川の水源から湧き出る水の量は半端ではありません。一日なんと百万トン、東洋屈指の湧水群に始まり、狩野川に注ぐまでのほんの1.2キロを、清冽な石清水が、毎日、毎分、毎秒、大噴水のように吹き出し、ほとばしり、流れ下るという、天衣無縫にゴージャスな富士山の贈り物が柿田川なのです。
川底の砂を巻上げながら湧き出る水と、澄みわたった流れを泳ぐ魚たちを、以前テレビ番組で見て以来、私はその光景に憧れつづけてきました。そしてようやく訪れた川辺は、国道からすぐのところでありながら、水源地に特有のあの世界観、水と植物が現出する秘密の園とでも言うべき、静かに神秘的な風景でした。
とはいうものの、川は、国道から遠くない崖の下あたりから突然、姿を現すように見えたので、「どこから流れて来るんだろうね?」と友人と話しながら歩いていると、これまた全く唐突に、その問いへの回答を解説する図を、手にもったおじさんが現れました。
そのおじさんは、熱心な郷土史研究家といった風情で、その常として、静かに風景に浸りたい観覧者にとっては、ややもするとありがた迷惑な第一印象だったのですが、持参された図によって始められた解説内容が、正しくたった今、私たちが発した質問に完璧に応えるものであったことから、私には、「川が遣わせた使者」(!)ともうけとれました。そして、確かにそのおじさんは、この川の「川守り」でもあったのでした。
おじさん、というよりは齢80の偉丈夫翁、下川原里見氏は、朋友、漆畑信昭氏らとともに、工場排水や開発工事の下に埋もれていた水源池を甦らせ、その後40年にわたり、毎月欠かしたこのない例会で指針を決めながら、市民運動家として柿田川を護り続けてきた「柿田川自然保護の会・柿田川緑のトラスト」の創設メンバーだそうです。
昭和40年代、高度経済成長のイケイケどんどんがもたらしたツケである公害問題は、その後取り戻された現在の風景を見て育つ、我々の子ども世代にとっては、リアルにイメージできないかもしれません。しかし、何を隠そう私の世代は、文字通りリアルタイムで、田子の浦港のヘドロから湧くメタンガスの映像を見てきたので、おじさんの話から思い出す当時の様子は、久しぶりに脳裏に現れた、私にとってリアルな「日本の現代史」的風景でもありました。
話を元に戻すと、下川原氏の解説によれば、富士山に降った雨が10年ほどをかけて、堆積した溶岩の層を通り抜ける間に、不純物を漉しとられ、豊かなミネラル分を与えられ、やがて新しく降る雨の水圧に押されて噴出しているのが柿田川の水源であるそうです。なので本当に、川は突然に始まっているらしいのです。もちろん、自然の大恩恵がほとばしり出る谷の、静かな始まりに気を留めることも無く、地図上に線を引いて敷設された国道が、幾筋もにあったであろう小さな谷筋を断ち切っていることは、そのとおりでした。
欲にまみれて、人々が顧みもしなかった時代も、毎日毎日、毎分毎秒、火山が創りあげた地層の中に雨は浸み込み、濾過されながら音もなく流れ、静かに滞留しながら滋養を貯え、何万トンもの恵みの水となって、この谷に湧き出ていたはずです。
広大な世界と、人の関係を、繰りかえし学び、忘れることなどひと時もできなかった縄文の人々の眼には、ほんの数十年の間に現代人が創りあげてきた風景は、どのように映るのでしょうか。
柿田川流域の環境を守るために、「水源周辺の土地をさらに買い取って保存しなければなりません」という下川原翁は、若い頃には労働争議の渦中に身を置いたバリバリの組合員だったそうです。昭和40年代、あの時代は、人間は人間だけのことで手一杯だったなあと思います。人が、惑星全体を変えてしまう力をもつと想像する前に、国中に国道をはり巡らすことで手一杯でした。
「あ、カワセミが来た」下川原氏は嬉しげにカメラを出しました。鋭くひとこえ啼いて現れたカワセミは、水面に張り出した木の枝にとまって、いつものように自慢の写真に収まりました。高度経済成長時代の影を曳きながら、一人、川辺で火山の地層をひも解く老人は、やはり柿田川が遣わしたメッセンジャーなのかなと思います。「この人をご覧なさい。この人に起きた変化が、柿田川が伝えていることです。」
安芸 早穂子 HomepageGallery 精霊の縄文トリップ