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連載企画

小山センセイの縄文徒然草 小山修三

第63回 地方文化を育て発信する遺跡ミュージアム 2016年12月7日

日本人ほど歴史が好きな国民は世界的にみて珍しい。異民族の侵入や移住が少なかったので時間的変容がたどりやすいからだろうか。第2次大戦後、日本の歴史は大きく書き換えられた。先史時代(縄文)の大湯環状列石(秋田県鹿角市)、原史時代(弥生)の登呂遺跡(静岡県静岡市)が発掘され、マスコミにさかんに報道されて、ひろく国民に受け入れられた。いわゆる日本のあけぼの時代が、神話から実証的な歴史へと変えた主役は考古学だった。

国の力も大きい。明治初期から遺失物取扱規則(1876年)や古社寺保存法(1897年)、史蹟名勝天然紀念物保存法(1919年)などがあったが、それらは1950年に「文化財保護法」として一体化され、今日の遺跡や遺物に対する保護の縛りとして効いているのである。予想外の展開は、経済復興にともなう土地開発だった。東京周辺では1960年代中ごろから道路、団地建設などによる緊急発掘が劇的に増え、70年代には全国に及ぶ。それを支えたのは都道府県および市町村の役所で、各地で埋蔵文化財センターが作られ、多くの職員が採用された。かつては「考古学じゃ食っていけませんよ」と言われていたのが夢のようだった。緊急発掘は、発掘面積が広く出土する遺物も膨大となる。遺物は箱に入れて、プレハブの倉庫に詰め込まれてゆっくり整理される。そこで、文化庁が主体となって「風土記の丘(1966年~)」、「ふるさと歴史の広場(1989年~)」、「歴史民俗資料館(1970年~)」計画をたて、遺跡保存、遺物管理、建築物の復元、環境整備、ガイダンスや新しい展示をもった資料館作りのための補助金を出し、全国的な統合をめざしたのである。現在、全国の館数は464館あるという。*1

私が注目するのは資料館(博物館もあるのでミュージアムと呼ぶことにする)の在り方である。初期には遺物をガラスケースに収める教育的な日本型博物館を踏襲したものであった。しかし、発掘者としていえば、ゴミ溜めや廃屋を掘り、土器を洗いつなぎ合わせていったプロセスとその興奮がみられないのが淋しい。だから観客もマスコミに煽られた興奮がさめると寄り付かなくなる。さいわい、ミュージアムは昔のムラにあるので、彼らがどんな服装やアクセサリーで身を飾ったか、食料をどこで手に入れ、どう料理して食べたのか、儀式や祭りの様子は、気候変動に対してどう対応したか、などさまざまな疑問が出てくる。それに対して、土器や勾玉の製作や食べ物づくり、さらにはファッションショーや音楽会まで、具体的な対応をするようになった。このような参加型のイベントがミュージアムの将来像を示していることは、私たちが国立民族学博物館で行っている研究で明らかになってきたのである。*2、3

三内丸山遺跡(青森県青森市)は日本の考古学やミュージアムの動きの中での総括期に動き始めたと言えるだろう。言葉を変えればこれまでの考古学者の努力が実を結んだとも言えるだろう。そしてそれは市民に支えられてきたものである。邪魔者あつかいされていた遺跡は今や地域文化を育て発信する施設となり、地方文化の育成と発信の場所となり全国的の牽引役となっているのは喜ばしいかぎりである。

(文献)
*1.青木豊・鷹野光行編 2015 『地域を活かす遺跡と博物館: 遺跡博物館のいま』同成社
*2.広瀬浩二郎編著 2012 『さわって楽しむ博物館―ユニバーサル・ミュージアムの可能性』青弓社
*3.広瀬浩二郎編著 2016 『ひとが優しい博物館: ユニバーサル・ミュージアムの新展開』青弓社

特別史跡三内丸山遺跡

特別史跡三内丸山遺跡のミュージアム「縄文時遊館」

プロフィール

小山センセイの縄文徒然草

1939年香川県生まれ。元吹田市立博物館館長、国立民族学博物館名誉教授。
Ph.D(カリフォルニア大学)。専攻は、考古学、文化人類学。

狩猟採集社会における人口動態と自然環境への適応のかたちに興味を持ち、これまでに縄文時代の人口シミュレーションやオーストラリア・アボリジニ社会の研
究に従事。この民族学研究の成果をつかい、縄文時代の社会を構築する試みをおこなっている。

主な著書に、『狩人の大地-オーストラリア・アボリジニの世界-』(雄山閣出版)、『縄文学への道』(NHKブックス)、『縄文探検』(中公 文庫)、『森と生きる-対立と共存のかたち』(山川出版社)、『世界の食文化7 オーストラリア・ニュージーランド』(編著・農文協)などがある。

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