
絵はどちらも絵本「森のスーレイ」(安芸早穂子著)から
レプリカとは言え、復元された洞窟の、岩に残された数万年前の人類の絵の、その獣たちの存在感は、心を揺さぶるものでした。
人が、身近に一体感を持って暮らしているものたちを描き出すとき、その姿形はもとより、手触りや、息遣い、気配までを、直接の体験として身体で記憶し、再びそれを描き現す。そこに私は心を揺さぶられるのだと思います。
もの心がついたら、すでにそこに居た人と獣のお互いが、湯気を立てて生まれ、老いて死んで朽ちてゆくまで、何世代にもわたって繰り返してきた、毎日毎日の暮らしの中から、地層のように積み重ねられた記憶の積み重なり。その上に立って初めて生まれる「知っている」という関係性。その「知っている」ことの結晶が、ラスコーの洞窟の岩々には、描き残されていたように思います。
人が獣を撫でたり、叩いたり、話しかけたり、切り裂いたりするとき、眼や耳だけでなく、その指先から、臭覚から、心臓の鼓動の響きから、血の温かみから、あらゆる身体の器官を貫いて感じ取られた小さなセンセーションの記憶。それらの取るに足らぬ記憶の集合体としての牡牛、馬、シカが、そこに確かに息づいて居ると、私は思わずにいられません。その崇高な表現に、私はひれ伏したいほどの敬意を覚えます
スケッチを重ねたわけでもなく、写真をとるわけでもなく、ただ毎秒毎分の刻々と変わる、「時」と「場」と「もの」が、たった一度だけ交わる一点の邂逅の、膨大な積み重ねをもって、古代の人々は初めて、「私はそれを知っている」と言ったのではないかと思います。
それらのものたちとの、交わりを遠く離れて、そんな「知りあい方」があったということさえ、忘れ去ってしまった現代の私たちにも、しみじみと伝わってくるものとは、何なのだろう。人間の心と獣が、ともに世界の分身として、命を通して交感した記憶が、人類の脳の原初的記憶の中にかすかに生きながらえているのでしょうか。
ケルトの物語では、土地は竜の背であり、洞穴は、竜の胎内への入り口であると聴きます。ケルトの人々ではなくとも、伏流水や鍾乳石に彩られた地中の迷宮を、手探りで進むとき、胎内をめぐるおもいがするのは 世界の人々に共通のことでした。
地の中に隠された回廊では、視覚が役に立つことはもっぱらなくなり、それに替わる感覚器官と精神の力を研ぎ澄ますことによって、人を取り巻く世界への畏怖と畏敬に満ちた思索が、深められたのかもしれません。
その思索は、宗教という人の身勝手な、人間中心の世界観が成り立つ前の、人と世界の繋がり方の哲学であったのだろうと思います。
純朴で、祈りのある絵、それを描いた人々の眼、彼らの中に確かにあった細やかな手触り、蹄の先から、臓物に至るまで、匂いや味わいも知り尽くしているものたちを描いた絵。
その中にある人と世界の崇高な結びつき、互いを認め合う心。暗く小さな、閉じられた世界で、小さな灯りをともす時、そこに交わされた心の記憶が、絵とともにゆらゆらと、私たちの脳裏によみがえるのでしょうか?
人を生きさせるために、人の血肉として胎内に取り入れたものたちと、それらを喰ったものたちの記憶は、深い地の中で、静かな畏敬と感謝の念を孕みながら、竜の寝息のような波動となって、回廊を覗く現代の人々に届けられているのだなあと、私は感じました。
安芸 早穂子 HomepageGallery 精霊の縄文トリップ