私は考古学を文化人類学の一分野である物質文化研究だと考えている。ふつう、文化と言えば、道具、言葉、神話、儀礼などが広く含まれるのだが、なにしろ扱うものが土器、石器、食料などのモノが中心であり、それも実体のごく一部でしかないのだから。それでも、文化要素を束ねれば、その時代の生活様式の体系を復元できるはずだ。文化の広がり方については、これまでは欧米でさかんだった伝播論(diffusion)に拠っていた。すなわち文化には「中心地」があり、それが周辺地域に広がるという説で、文化一元論と呼ばれている。しかしそれでいいのだろうか。
縄文時代に絞って考えてみよう。文化要素は海外から来たものが多いが、どのような形で持ち込まれたのだろう。文化拡散論でもやはり民俗学者の柳田国男の影響が強いが、『海上の道』や『山人考』で提示したのは、日本のクニは、天から降りて来た人々が先住の集団を征服して、クニの礎を作ったが、まつろわない集団(エゾ、ツチグモなど)も残った。考古学からいえば弥生的集団(水田稲作民)が縄文的集団(狩猟採集-畑作民)を征服したという説である。これは国史として、大筋としては納得できるのだが、それでも縄文的文化要素が現在でもこれほど多く残っていることを考えると、説明に苦しむところがある。東日本では、氷河期が終わって温暖期に入ったころから、縄文社会の人口数が急速に伸び、西日本と対立するような明確な文化圏を形成した。その基盤経済は狩猟採集色の濃い(始原的な)焼畑農耕経済であり、その本質は現在まで続いていると私は考えているからである。
縄文の人々がさまざまな文化要素をどう運んだのか、どうしてそれを受け入れたか(あるいは受け入れなかったか)という日常生活における視点から考えてみよう。縄文時代には1万年以上にわたり安定した独自の文化が形成されており、大きな戦いや軋轢による社会変化はみられない。文化要素の拡散にとって最も頻繁なのは個人的なつきあいである。食べ物をはじめ日常生活に必要な品物が分配され、村はそのような関係でつながり小さなクラスターが現れる。さらにそれらは環境に適応した形となった文化圏となるのである。これはオーストラリアのアーネムランドの縄文的な村で暮らしていて実感したことである。
このような個人的な付き合いのほかに、交易という流通網の問題がある。同一文化圏でおこる中距離交易については三内丸山遺跡で石器の材を北海道に求めたことが知られているし、関東と中部地方のいわゆる勝坂文化圏では海産物と黒曜石の交換が主体となっていたことが予想される。さらに文化圏を超える遠距離貿易になると高価なヒスイや南海の貝の例が知られている。私としては縄文時代に商人と呼んでいいほどの集団が生れていた可能性を感じている。
もう一点、文化を受けとる側の姿勢についても考えておきたい。これまではなんとなく周辺へと伝播すると考えていたのだが、そうではなく、まるで今日のベンチャービジネスのように、明確な意図をもって新しい文化要素を積極的に導入しようとした例があったのではないだろうか。それについてはシステマティックな水田稲作を導入した青森県弘前市の砂沢遺跡を例に挙げたい。効果的な生産手段を追求する伝統的な縄文人の意志を強く感じるのである。海外からの文化要素については、漂流などの偶発的なものや、逆に戦争のような残虐なものより、私は、成熟した社会の人々のより良い生活への強い想いを感じてならないのである。
参考文献
松本修 1993 『全国アホ・バカ分布考-はるかなる言葉の旅路』太田出版
弘前市教育委員会 1988 『砂沢遺跡発掘調査報告書』

言葉は中心部から周辺へ移るというアカデミックな伝播論である「方言周圏論」を見事に検証した(松本修 1993)

砂沢遺跡の水田跡(弘前市教育委員会 1988)