『最古の文字なのか?』(J.V.ペッツインガー、文藝春秋2016)の書評をFace Bookにのせたら、大きな反響があった。「日本でもこういう研究がもっとあってほしい」というコメントが多かった。(注)
この本は、アルタミラ洞窟(スペイン)やラスコー洞窟(フランス)に代表される3万年前の壁画のゾウやバイソンなどの写実的な像ではなく「記号」に注目し、それが文字の発生につながるのではないかというのが主なテーマである。著者である彼女は氷河期の368ヶ所の洞窟遺跡の記号をデータ・ベース化した。記号は32に集約できる。そこから文化の伝わり方や継続性、地域性を解明するいかにも欧米の若い研究者らしい発想に縄文人口を推算した若いころの私との共通点を感じて懐かしかった。
縄文土器の文様については、東日本の縄文時代前期から中期にかけて装飾が多くなり、記号らしき文様がたくさん使われている。それらが文字であるという可能性は少ないと思うが、記号であってもそこから読み取れるものは多く、私はそこに縄文人のメッセージが込められていると考えている。一例を挙げると、渦巻文はしばしばヘビの写実文と混在しながら広い分布と盛衰がみられる。ヘビは再生、医療、創造主などのシンボルとして世界的に使われ、縄文人も特別な思いを持っていたにちがいない。それは現代でも三角形のウロコ文が家紋や神社のシンボルとして使われている息の長さからも伺うことはできるだろう。
ところがキマジメな日本の考古学者の多くは文様を単なる装飾文の一つとしてとりあげるだけである。モノだけから考える実証主義に偏ってしまうと、それに包括しきれない精神的な問題から離れてしまい、キレイ、カワイイ、コイシイ、コワイなどの単純な感情さえとり逃がしているような気がする。ペッツインガーさんのように文様要素の客観的なデータ・ベースをつくることも一案であろう。それを縄文土器編年表と比較していけば、地域や時代の変化が明らかになると思う。
今、考古学は地方再生のキーワードの一つとして注目され、遺跡の資料館を活用して子供向けの体験教室や市民イベントなどが盛んに行われている。より親しみがあり分かりやすい、夢のある学問になってほしいと思う。
注
Facebookページ 小山修三と千里の森 6月6日の記事(新しいウィンドウが開きます)

オーストラリア・アボリジニのアクリル画(砂絵/写真提供:国立民族学博物館)
アボリジニは記号のいっぱい書かれた絵を見て、すらすらと彼らの神話を語る。
(国立民族学博物館特別展図録『オーストラリア・アボリジニ-狩人と精霊の5万年』
小山修三ほか編1992/産経新聞大阪本社)