「出あいは未来をひらく」は、青森県で「森のイスキア」を主宰する、佐藤初女さんの言葉である。
「出会う」というのは本当に不思議な現象だと思うのだ。青森県で三内丸山遺跡が発掘されたのは1994年のこと。この時、私は青森県内に住む高校3年生だったのだが、「5000年前の遺跡が出た」というニュースを当時の私は全然、聞いていなかった。
ようは、すぐそばにあるのに興味がなくて、出会えていなかったのだ。
全然知らない世界では、何かとてつもないことが起こっていても自分の生活が変わるわけでもなく、当時の私は朝5時からのパン屋さんでのアルバイトに明け暮れ、ニュースも聞かず、授業中は寝てばかりいた。
その当時、三内丸山遺跡が出た瞬間に立ち会えた人には、一体何が起こったのだろう。「縄文」は、現代の日常を覆すだけの力を持っていた。私は日常の「当たり前」のことが、当たり前でなくなる瞬間が好きだ。なので、そういった価値観をひっくり返される瞬間に立ち会えた人たちを、羨ましく思う。が、年月を越えて縄文は、私のところにもやって来た。十数年前の書物である、1996年発行の季刊『稽古館』の、小牧野環状列石特集を開いた時、身体中を震わす何かが訪れたのだ。
縄文の生と死を見つめたこの『稽古館』小牧野環状列石特集は、30歳そこそこしか生きていない私の身体を、ぐらぐらと底から揺らした。
縄文に寄せる思いは美しい文章になって、青森の厳しい自然と美しい春の景色を描き出しており、読後は冷たい空気を吸い込んだような思いだった。
この本の編者である田中忠三郎さんは、若い頃に下北の遺跡を素手で、十年掘り続けた人である。
発掘の場所は畑であったために、田中さんは真冬の、耕作作業のない季節に、真っ暗で雪の降る中、素手で土器を掘っていた。夢中になって、十年掘り続けた。
田中さんは土器を「青森の財産」だと信じ、決して人に売ることをせず、管理してくれる博物館が現れるのを待った。
そして、寒さを耐えながら土器を掘り続けることで、次第に
「縄文の人たちは一体、何を着ていたのだろう。これだけのすばらしい土器を残した人たちが、原始人のような服を着ていたはずがない」
という思いから、青森県内の農村・山村・漁村を回り、古老や姥たちの話を聞き歩き、40年間、衣類の収集に務めた。何度も通ううちに、「実はこういったものがある」と、江戸時代から何世代にも渡って親から子へと受け継ぎ、つぎ、はぎし、寒さから身体を守ったぼろを、集落の姥達から受け取った。
その接ぎ合わせの美しさから、今ではぼろはBOROと呼ばれ、思いの込められた布は現代、「奇跡のテキスタイル・アート」として人々の心を震わせている。
ぼろには、必ず麻布が使われていた。
寒冷地である青森県では、木綿が育たず、大正時代まで農民は麻を紡いで服を作っていた。「きっと、縄文時代にも人は、麻糸を紡いだ衣類を着ていたはずである」
そう信じた田中さんが、三内丸山遺跡から麻の種子が出土した時の喜びは、ひとしおだったという。
土器との出会い、ぼろとの出会いが、現在76歳である田中忠三郎さんを突き動かしてきた。ぼろは、ただいまは浅草のアミューズ・ミュージアムにて、BOROとして見ることができる。百年以上に渡って受け継がれたぼろは、藍染めの濃淡や、その時々に手に入った朱色の布を接ぎ合わすなどされ、「少しでも美しく」という女性達の祈りによって、あり得ないほどの芸術性を帯びている。
それはまるで、遺跡から出土する縄文土器が、いつまで見続けても飽きぬ形をしていることに、似ていると思う。