土器は縄文時代を特徴づける道具、その利用の始まりは世界的にみても古い。壊れやすいが、作りやすく量産がきき、熱に強いので、煮炊き、貯蔵、食器など、単純な狩猟採集段階から脱した縄文社会の生活のかたちを決定した。しかし、時代が進むにつれて別次元の世界があらわれる。それはアートとしての道である。実用から精神世界へ道がひらけたのである。まず美術的インパクト、これさえあれば人を引きつけることができる。予備知識などはそのあとのことなのだ。いま縄文土器が国内だけではなく国際的にも熱い視線を浴びているのはそれが理由の一つだと思う。
前回の記事で土器の文様には縄文人のメッセージが込められているのではないかと考えた。文様が文字であったとするのはすこし無理だったが、その前段階の記号であった可能性は高いと思う。それは、オーストラリア中央砂漠の先住民の絵画には同心円は泉、波状は道、U字はキャンプのシェルターなどの約束があって作者はそれを見て長い神話を語るのを聞いていたからだ。縄文土器がそうなるのは縄文時代中期の東日本であったが、それらの土器は芸術作品として魅力的である一方、どんなメッセージが込められていたかも知りたくなる。その助けとなりそうなのが写実的な文様であろう。土偶も含めればヒト(仮面をかぶったり、踊るような動きを表しているものもある)、クマ、イノシシ、ヘビが表現されていることは確実で、とくに動物たちは古事記や日本書紀などの古層の説話に表れる。そうすると、縄文人が歌ったり踊ったりする儀式の様子まで思い浮かんでくるのである。そこでは生と死、病気、豊かな実り、子孫の繁栄、性にかかわる男女の問題まで、人類共通のさまざまの物語が語られたのであろう。
この夏、八ヶ岳高原(長野県)に行ったとき、何十年ぶりかで富士見町の井戸尻考古館を訪れた。ここは、1960年代から在野の考古学者をもって任じていた藤森栄一さんをリーダーとして若い考古学者が集まり、藤内遺跡をはじめとするすごい遺跡を次々と掘り当てていたので、縄文学を志したばかりの私には眩しい場所だった。現在は茅野市の尖石縄文考古館がこの地域を統合する役割を果たしているが、町立の小さいものの、縄文考古学の揺籃の地としての誇りは高く、独自の活動を繰り広げている。彼らアカデミーとは一線を画した地元主義をとり、民俗学や宗教学、哲学までいれた、より大きな世界に踏み込もうとしているのである。また、土器文様についても独自な視点でアートとしての考古学の世界を先取りしたような「縄文図像学」を提唱している。実証主義に偏った感のある考古学者としては怖いのだが、どこに行っても同じような遺跡資料館にしないためにも地元の眼が生かされているのだと思った。

円筒土器(左:青森市三内丸山遺跡/縄文時代中期)と
狩猟文土器(右:八戸市韮窪遺跡/後期/青森県立郷土館蔵)
北海道・北東北の円筒土器は、中部地方のいわゆる「火炎土器」とならんで縄文時代の土器文化を代表するものだった。しかし、中部地方の土器が縄文時代前期からアート的になっていったのに比べ、円筒土器は実用的な性格が強かった(軽口を飛ばせば、フランスとドイツの差のようだ)。しかし、後期になると装飾が増えはじめ、晩期には「美と実用」を兼ねたいわゆる亀ヶ岡式土器が生まれる。その影響は西日本にまで及んだのである。