これまで縄文時代とは狩猟採集の段階で、自然のなかの小さなムラに住んでいたと考えていた。
ところが最近は、三内丸山遺跡のように都市的で、広域交易をやり、栽培まではじめていたという複雑な社会であったことがわかってきた。それならば、社会をまとめる「装置」があったのではないかと考えていいのではないか。その一つに「暦」がある。暦とは社会を規制する時間の枠である。現在のカレンダーは12の月と7日間の週にわけ土、日、祝日の休日を区切りとしている。それが役所をはじめ学校、銀行、商店ほか日常の生活システムを動かして、私たちを縛っていることが分かる。
現在の日本の暦は明治6年(1873)に採用された西洋系の太陽暦だが、それまでは飛鳥時代(8世紀)から始まる中国の太陰・太陽暦であった。どちらも先進国に伍するために無理やり取り入れたものだが基準として社会を規制している。では、それ以前の弥生時代にはどうだったのか。『魏志倭人伝』(の注)に、「倭人は暦を知らない。春に耕作をはじめ、秋に収穫することで1年としている」と書かれている。すでに高度に発達した暦を持っていた中国人に軽んじられたような気もするが、それでも春耕・秋収という言葉がカギになりそうだ。季節に生活を合わせゆるい自然暦があったことを示している。季節変化には植物は敏感に反応する。動物も、毛が生えかわったり、冬眠してしまうのもいる。ところが、人間はそれができないので衣替えや食料の確保などの計画や準備が大変なのである。
アーネムランド(オーストラリア)のアボリジニ社会もそうだった。気候は熱帯性で雨季と乾季に分かれるが、雨季はまわりが水浸しになるので彼らはムラに閉じ込められてストレスがたまる。ところが乾季には水が干上がるので活発に動きはじめる。ベリー類が沢山なる頃、ユーカリの花が咲く頃、貝類がおいしい頃、渡り鳥がやって来てその卵がとれる頃、キャンプをはって草原に火を放って狩をしてみんなで楽しむ頃など、食べもの中心に季節を語るのである。生産活動で季節がきまるのは農耕が始まっても変わらない、焼き畑、畑作、水田稲作もすべて同じである。そう見ると、縄文時代の暦は狩猟採集から農耕開始までの1万年以上の時間のなかで徐々に組み上げられていったことがわかる。
暦の研究は、欧米では英国のストーンヘンジや水平線上のどこから日がのぼるかで冬至や春分を知る北米ホピ族のホライズン・カレンダーなど太陽の動きに対する考古学や民俗学者の関心が高い。これに月、星座が加わるのは天文の方が身体感覚よりはるかに正確だからである。縄文についてもこれまで大湯環状列石(鹿角市)の日時計や三内丸山遺跡の大型掘立柱建物(六本柱)が太陽とのかかわりで論じられている。それでも研究はまだ初期レベルにあり、暦問題を解明する道は遠いと言わざるを得ないようだ。対象が天体にまで及ぶと、これまでのようにモノだけにこだわっていると先が見えなくなる。国立民族学博物館で世界のカレンダー展をやった中牧さんは比較的短時間のうちに80ヶ国以上、1500点を集めたそうだ。暦にはそれぞれの民族の生活そのものがつまったものである。だから、縄文の暦を考えるときはもっと広い視野が必要で、とくに民俗学の資料が大切だと思う。
複雑な文様で飾られた縄文土器を見ていると、「オレたちの言ってることが分からないのかー」と身もだえ叫んでいる縄文人の姿が思い浮かぶのは私だけだろうか。
(文献)中牧弘允2015『ひろちか先生にまなぶ こよみの学校』つくばね舎

オーストラリアの(アボリジニがさかんに活動をおこなう乾期の)ブッシュファイアー

夏至の日没(大湯環状列石/鹿角市) 画像提供:鹿角市教育委員会